私が心を病んだいきさつ
2000年12月14日少し前から「鬱病」になるまでの事を覚えておこうと、WORDに少しづつ書き溜めて来ました。
はっきり言ってとっても暗いです(笑)。
でも一生懸命思い出して書きました。
しばしこの暗い文章にお付き合い下さいませ。
題して「私が心を病むまで・・・」
*******************************************
もう3年位前になるだろうか、ある日旦那さんに新しい仕事の依頼が来た。
元々彼はフリーで仕事をしているが、殆んどの仕事はあるAV機器メーカーから貰っている。
その会社から社員としてある現場に行って欲しいと言うものだった。
その頃は丁度不景気で、1つの仕事を同じ様なフリーの業者が奪い合うような時期だったので、彼は迷う事無くその依頼を快諾した。
確かに仕事のない時期に月収60万の仕事は良い条件だったし、現場も少し遠いとは言え、車で1時間程度だったので、私も彼の仕事に付いては何も言わなかった。
仕事はある市の市民の為の総合施設の建設。
その新しい施設に入る「図書館」の仕事を受注するという条件で、現場でのメーカーの常駐管理人になって橋渡し的な仕事をする事になっていた。
この約束はすぐに反故にされることになったが・・・。
現場仕事は8時〜5時が定説と言うので、出勤時間が早くはなるが帰りも早い、と主人に聞かされ、
「サラリーマンみたいやなぁ」なんて呑気な事を言っていたものだ。
しかし定時に帰れたのは初日だけ。
まして仕事も当初聞いていたのとは全く違うものだった。
「騙された」そう気付いたのは一ヶ月ほどたった頃、もう彼に後戻りは出来ない・・・。
デスクワークと言う仕事を与えられた旦那は、慣れない仕事に神経をすり減らし、朝5時半過ぎに家を出、帰って来る時間は9時、10時、11時と段々に遅くなって行った。
その頃娘は1歳を過ぎたばかりで、可愛い盛りではあるが手も掛かる時期。
せめて夕食は父親と一緒にと私が気を遣っても、彼の帰宅時間が遅くなるに連れ、娘と二人で夕食を摂る日が多くなった。
次第に彼は疲れと仕事の不満を訴え始め、私も淋しさと一人きりでする育児に心を疲れさせ始めていた。
どんなに彼が仕事の不満を訴えても、私にはどうしてあげる事も出来ない。
仕事以外にも宴会や接待にも駆り出された。
土曜も日曜も娘と二人きりの日々が続く。
毎日ケータイに「いつ帰ってくるの?」と何度となく電話を入れるようになった。
娘が最初に覚えた2語文は、
「ぱぱ、いないいない」だった。
淋しかった、ただただ淋しかった。
娘の大泣きに疲れた日、熱を出した日、自分の体調が悪い日、旦那に側にいて欲しかった。
話を聞いて貰うだけで良かったのに、疲れきって帰って来る旦那には話せない事が増えた。
娘にもイライラして当たったりもした。
朝起きて、一日娘と2人何をして過ごそうかと考えるのが苦痛になっていた。
運の悪い事に、丁度友達が、次々と離婚や引越しなどでどんどん私の周りから居なくなっていく時期に重なっていた。
淋しさは誰にも口に出来ないまま心の中に澱のように貯まって行った。
そんな日々が1年と2ヶ月続いた頃建設工事は終わり、やっと彼は辛い仕事から、私は孤独から解放された。
娘は2歳3ヶ月、やっと父親を取り戻した。
でも私の心はすでに健康ではなくなっていたらしい。
淋しさと不安、不満で押し潰され続けた心は、弾力を失ったボールのように原因が取り除かれてからも元の形に戻る事はなかった。
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暗い・・・やっぱり暗い(^^ゞ
読んで下さってる方の気分を暗くしてしまったらごめんなさい。
でも、続きがあるのでまたのせまーす。
今度は心の準備をしてから読んでくださいね。
はっきり言ってとっても暗いです(笑)。
でも一生懸命思い出して書きました。
しばしこの暗い文章にお付き合い下さいませ。
題して「私が心を病むまで・・・」
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もう3年位前になるだろうか、ある日旦那さんに新しい仕事の依頼が来た。
元々彼はフリーで仕事をしているが、殆んどの仕事はあるAV機器メーカーから貰っている。
その会社から社員としてある現場に行って欲しいと言うものだった。
その頃は丁度不景気で、1つの仕事を同じ様なフリーの業者が奪い合うような時期だったので、彼は迷う事無くその依頼を快諾した。
確かに仕事のない時期に月収60万の仕事は良い条件だったし、現場も少し遠いとは言え、車で1時間程度だったので、私も彼の仕事に付いては何も言わなかった。
仕事はある市の市民の為の総合施設の建設。
その新しい施設に入る「図書館」の仕事を受注するという条件で、現場でのメーカーの常駐管理人になって橋渡し的な仕事をする事になっていた。
この約束はすぐに反故にされることになったが・・・。
現場仕事は8時〜5時が定説と言うので、出勤時間が早くはなるが帰りも早い、と主人に聞かされ、
「サラリーマンみたいやなぁ」なんて呑気な事を言っていたものだ。
しかし定時に帰れたのは初日だけ。
まして仕事も当初聞いていたのとは全く違うものだった。
「騙された」そう気付いたのは一ヶ月ほどたった頃、もう彼に後戻りは出来ない・・・。
デスクワークと言う仕事を与えられた旦那は、慣れない仕事に神経をすり減らし、朝5時半過ぎに家を出、帰って来る時間は9時、10時、11時と段々に遅くなって行った。
その頃娘は1歳を過ぎたばかりで、可愛い盛りではあるが手も掛かる時期。
せめて夕食は父親と一緒にと私が気を遣っても、彼の帰宅時間が遅くなるに連れ、娘と二人で夕食を摂る日が多くなった。
次第に彼は疲れと仕事の不満を訴え始め、私も淋しさと一人きりでする育児に心を疲れさせ始めていた。
どんなに彼が仕事の不満を訴えても、私にはどうしてあげる事も出来ない。
仕事以外にも宴会や接待にも駆り出された。
土曜も日曜も娘と二人きりの日々が続く。
毎日ケータイに「いつ帰ってくるの?」と何度となく電話を入れるようになった。
娘が最初に覚えた2語文は、
「ぱぱ、いないいない」だった。
淋しかった、ただただ淋しかった。
娘の大泣きに疲れた日、熱を出した日、自分の体調が悪い日、旦那に側にいて欲しかった。
話を聞いて貰うだけで良かったのに、疲れきって帰って来る旦那には話せない事が増えた。
娘にもイライラして当たったりもした。
朝起きて、一日娘と2人何をして過ごそうかと考えるのが苦痛になっていた。
運の悪い事に、丁度友達が、次々と離婚や引越しなどでどんどん私の周りから居なくなっていく時期に重なっていた。
淋しさは誰にも口に出来ないまま心の中に澱のように貯まって行った。
そんな日々が1年と2ヶ月続いた頃建設工事は終わり、やっと彼は辛い仕事から、私は孤独から解放された。
娘は2歳3ヶ月、やっと父親を取り戻した。
でも私の心はすでに健康ではなくなっていたらしい。
淋しさと不安、不満で押し潰され続けた心は、弾力を失ったボールのように原因が取り除かれてからも元の形に戻る事はなかった。
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暗い・・・やっぱり暗い(^^ゞ
読んで下さってる方の気分を暗くしてしまったらごめんなさい。
でも、続きがあるのでまたのせまーす。
今度は心の準備をしてから読んでくださいね。
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