心の底から笑える日まで≪その7≫
2001年1月14日前回の続きです。
買いているうちにその頃を思い出して辛くなってきてしまいました。
読んでくださった方が辛くなりませんように、祈っております。
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ルボックスと言う薬、効果が現れ始めるのは2週間後だが、副作用は飲んだその日から現れ始めた。
この薬の主な副作用と言うと、普通は胃腸障害が多いらしいが、私には焦燥感となって襲ってきた。
とにかくイライラするのだ、もう足をじっとして居られないほどに。
それにプラスして鬱病特有の症状もある訳で、胸の中に何かが一杯詰まったような苦しさが一日中続く。
私は足をばたつかせて泣きながら、
「誰か助けてよ!出来ないのなら殺してよ!」と喚き散らしていた。
TVや人の話し声が煩わしくて、ふすまを閉めた部屋の中でただ一日が過ぎていくのをじっと待っていた。
人と口を聞くのも億劫になった。
相変わらず摂食障害は続いており、岡田医院から貰った「エンシュアドリンク」と言う、口から食事が取れない患者にチューブで直接胃に送り込む、病院などで使われる液体の栄養剤だけで生き長らえていたと言っても過言ではない。
一日1缶、それを3回に分けて飲むのだが、カロリーは一缶で250キロカロリー。
他に何かを食べられる日は良いのだが、そうでない日はエンシュアのみである。
食べられると言っても、豆腐のお吸い物をお椀に5分の1位なのだが。
当然体は痩せ続け、体力も徐々に落ちていく。
病院へは毎日通っていたが、めまいが酷い日は付き添いがないと一人では歩いて15分ほどの病院へも行けなかった。
栄養剤や食欲を出すための薬を入れた点滴を受け、岡田医師に辛さを泣きながら訴えつづけた。
医師は、
「病気の悩みはここ(病院)に置いて行きなさい、そして煩わしい事はみんな人任せにして、貴方はただ一日を生きることだけを考えればいい」
「この病気は薄皮をはがすようにしか良くならないけど、必ず治るから焦らないようにね」
そう言って毎日慰めつづけてくれた。
時には主人へも私への接し方の話をしたり、参考になる新聞の切抜きなども取り置いて渡してくれた。
5日ほどして姉は自分の家庭の事もあり帰って行き、3人だけの生活になった。
この体で家事もしなければいけなくなったのである。
朝、娘の身支度は私がさせ、幼稚園のバス停まで送って行くのは、主人の分担にしたが、仕事の関係で主人が行けない日は私が送って行かなければならない。
もちろん身なりなど構っていられる余裕は無く、娘の手を引いてふらふらと歩いて送って行くのだが、こんな母親でも娘は
「お母さんと一緒が良い!」と言ってバスに乗りたがらず、泣きながら園の先生に抱かれて通う毎日だった。
私も後ろ髪を惹かれる思いでバスを見送っていた。
そのあと洗濯をし、病院で点滴を打って貰って帰ると、もう「お迎え」の時間。
それから主人が帰ってくるまで娘と二人で過ごすのだが、不思議にこの頃から娘は我がままを言わなくなり、静かに一人遊びをして時間を潰していてくれた。
少しづつ母親は病気なのだと理解し始めたようだった。
仕事から帰った主人は買い物をし、炊事をし、娘の遊び相手をし、私に少しでも負担が掛からないようにと気を使ってくれていたが、その間も私は自律神経症状の発作を起こしたり、過敏性大腸炎で夜に救急病院に駆け込むなど、病状は行ったり来たりを繰り返していた。
私は指折り数えながら、薬が効き始めるという2週間が過ぎるのをじっと待った。
そして本当に2週間が過ぎた頃、病状は少しづつ楽になり始めた。
本当に薄紙を剥がすようにではあったが、体も心も楽になって行き、食事も取れるようになって行った。
家事すべては無理だったが、自分の身の回りの事、娘の世話、小さな事は出来るようになり、病院への行き返りに季節の花を眺める余裕も出てきた。
桜の花は眺める事も無く散っていったあとだったが。
買いているうちにその頃を思い出して辛くなってきてしまいました。
読んでくださった方が辛くなりませんように、祈っております。
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ルボックスと言う薬、効果が現れ始めるのは2週間後だが、副作用は飲んだその日から現れ始めた。
この薬の主な副作用と言うと、普通は胃腸障害が多いらしいが、私には焦燥感となって襲ってきた。
とにかくイライラするのだ、もう足をじっとして居られないほどに。
それにプラスして鬱病特有の症状もある訳で、胸の中に何かが一杯詰まったような苦しさが一日中続く。
私は足をばたつかせて泣きながら、
「誰か助けてよ!出来ないのなら殺してよ!」と喚き散らしていた。
TVや人の話し声が煩わしくて、ふすまを閉めた部屋の中でただ一日が過ぎていくのをじっと待っていた。
人と口を聞くのも億劫になった。
相変わらず摂食障害は続いており、岡田医院から貰った「エンシュアドリンク」と言う、口から食事が取れない患者にチューブで直接胃に送り込む、病院などで使われる液体の栄養剤だけで生き長らえていたと言っても過言ではない。
一日1缶、それを3回に分けて飲むのだが、カロリーは一缶で250キロカロリー。
他に何かを食べられる日は良いのだが、そうでない日はエンシュアのみである。
食べられると言っても、豆腐のお吸い物をお椀に5分の1位なのだが。
当然体は痩せ続け、体力も徐々に落ちていく。
病院へは毎日通っていたが、めまいが酷い日は付き添いがないと一人では歩いて15分ほどの病院へも行けなかった。
栄養剤や食欲を出すための薬を入れた点滴を受け、岡田医師に辛さを泣きながら訴えつづけた。
医師は、
「病気の悩みはここ(病院)に置いて行きなさい、そして煩わしい事はみんな人任せにして、貴方はただ一日を生きることだけを考えればいい」
「この病気は薄皮をはがすようにしか良くならないけど、必ず治るから焦らないようにね」
そう言って毎日慰めつづけてくれた。
時には主人へも私への接し方の話をしたり、参考になる新聞の切抜きなども取り置いて渡してくれた。
5日ほどして姉は自分の家庭の事もあり帰って行き、3人だけの生活になった。
この体で家事もしなければいけなくなったのである。
朝、娘の身支度は私がさせ、幼稚園のバス停まで送って行くのは、主人の分担にしたが、仕事の関係で主人が行けない日は私が送って行かなければならない。
もちろん身なりなど構っていられる余裕は無く、娘の手を引いてふらふらと歩いて送って行くのだが、こんな母親でも娘は
「お母さんと一緒が良い!」と言ってバスに乗りたがらず、泣きながら園の先生に抱かれて通う毎日だった。
私も後ろ髪を惹かれる思いでバスを見送っていた。
そのあと洗濯をし、病院で点滴を打って貰って帰ると、もう「お迎え」の時間。
それから主人が帰ってくるまで娘と二人で過ごすのだが、不思議にこの頃から娘は我がままを言わなくなり、静かに一人遊びをして時間を潰していてくれた。
少しづつ母親は病気なのだと理解し始めたようだった。
仕事から帰った主人は買い物をし、炊事をし、娘の遊び相手をし、私に少しでも負担が掛からないようにと気を使ってくれていたが、その間も私は自律神経症状の発作を起こしたり、過敏性大腸炎で夜に救急病院に駆け込むなど、病状は行ったり来たりを繰り返していた。
私は指折り数えながら、薬が効き始めるという2週間が過ぎるのをじっと待った。
そして本当に2週間が過ぎた頃、病状は少しづつ楽になり始めた。
本当に薄紙を剥がすようにではあったが、体も心も楽になって行き、食事も取れるようになって行った。
家事すべては無理だったが、自分の身の回りの事、娘の世話、小さな事は出来るようになり、病院への行き返りに季節の花を眺める余裕も出てきた。
桜の花は眺める事も無く散っていったあとだったが。
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