心の底から笑える日まで≪最終回≫
2001年1月26日久しぶりの更新です。
やっと闘病日記も書き終えました。
この闘病日記を、私を支えてくれているすべての人に捧げます。
*******************************************
抗鬱剤は最初は最低量から始めて、だんだんに量を増やしていく事が多いらしい。
倍量に増やされた薬が効いたのか、前向きな考えに切り替えられたからか、数日して劇鬱状態からは解放された。
死にたいという気持ちも薄らいでいき、また少しづつ薄紙を剥がすように、気分も体調も良くなり始めた。
外を散歩したり、家事も家の中の仕事だけではあったが、出来るようになっていった。
少しづつ笑顔も取り戻し、周りの誰もが「良くなった」「変わった」と言ってくれるようになった。
勿論すべてが順調にいっていたわけではない。、
相変わらずめまいのひどい日もあったし、小さな発作は2週間に一度は起こっていた。
でも確実に快方には向かっていたのは間違いない。
まず、7月にはそれまで人ごみが怖くて入れなかったスーパーマーケットに入って、買い物が出来るようになった。
8月、めまいの発作を起こして以来、怖くて乗れなかった自転車にまた乗り始めた。
近くのの公営プールに通い始めた。
9月、主人と一緒なら、すいているレストランで食事も出来るようになった。
10月、ついに電車に一人で乗れるようになった。
数え始めたら限がないほど、少しずつ出来る事が、そして行動範囲が広がり始めた。
残念ながらこの夏は家族で出かけることは出来なかったが、夏祭り、マンションから見た花火大会、幼稚園の盆踊り大会、ささやかだけれど夏の思い出も作る事が出来た。
秋には近くの山で少し早い紅葉を楽しんだ。
夏が過ぎ、秋も過ぎ行き、もう真冬になった今も私はこの病気と一緒にいる。
でも本当に少しずつ、それも行きつ戻りつの連続だけれど、私の病気は良い方向に向いていると思っている。
今も薬は手放せないが、この病気と共存していくための必要悪のようなものだろうか、これのおかげで何とか人間らしい生活を営んでいけるのだと思える。
確かに何時治るのかという不安は常に心の中にある。
焦るなと言われても無理な時もある。
鬱の波の中は慣れているとはいっても苦しいものは苦しいし、泣き言も出る.
でもここまで来るのに私は実に多くの人の助けを借りてきた。
その人たちのためにも私は諦めない。
家族には特に多大な迷惑をかけている。
主人、娘は言うに及ばず、姉には痴呆の始まった父親の世話をすべて押し付けた形になっているし、主人の仕事仲間は主人が家を空けることがないようにと、遠くの現場仕事は彼らが代わって行ってくれている。
それも「お互い様やからな!」と笑いながら。
感謝してもし切れないほどの優しさを私は貰った。
それと、直接と言う形ではないが、某HPの掲示板で知り合った人たちにも随分と支えられた。
パソコンは私が鬱病になってすぐに主人が買ってくれていた。
外に出られない私のためと言う意味もあったろうと思う。
偶然にたどり着いた掲示板だったが、そこで私は病気の知識、薬の知識、病気との付き合い方を学んだ。
色んな人が同じ病気を抱えながらも、仕事をし、家事をし、子育てをしている。
そういった事実が私の励みになった。
これからも私は悩み、苦しみ、助けを求めながら歩いていくだろう。
先の見えないトンネルではあるけれど、一人で歩いているのではない。
沢山の手が私の手に繋がれている。
*******************************************
この暗い日記を読んでくださった方に心から感謝します。
この日記をきっかけに「鬱病」と言う病気が特殊な人に現れる病気ではない事、治療には周りの支えが必要な事。
それを理解してくれる人が増え、自然に受け入れられる社会になる事を望んでいます。
この闘病日記は、「心の底から笑える日まで」の最初のページに繋がっていきます。
これからはその日その日の事を書いていきますね。
やっと闘病日記も書き終えました。
この闘病日記を、私を支えてくれているすべての人に捧げます。
*******************************************
抗鬱剤は最初は最低量から始めて、だんだんに量を増やしていく事が多いらしい。
倍量に増やされた薬が効いたのか、前向きな考えに切り替えられたからか、数日して劇鬱状態からは解放された。
死にたいという気持ちも薄らいでいき、また少しづつ薄紙を剥がすように、気分も体調も良くなり始めた。
外を散歩したり、家事も家の中の仕事だけではあったが、出来るようになっていった。
少しづつ笑顔も取り戻し、周りの誰もが「良くなった」「変わった」と言ってくれるようになった。
勿論すべてが順調にいっていたわけではない。、
相変わらずめまいのひどい日もあったし、小さな発作は2週間に一度は起こっていた。
でも確実に快方には向かっていたのは間違いない。
まず、7月にはそれまで人ごみが怖くて入れなかったスーパーマーケットに入って、買い物が出来るようになった。
8月、めまいの発作を起こして以来、怖くて乗れなかった自転車にまた乗り始めた。
近くのの公営プールに通い始めた。
9月、主人と一緒なら、すいているレストランで食事も出来るようになった。
10月、ついに電車に一人で乗れるようになった。
数え始めたら限がないほど、少しずつ出来る事が、そして行動範囲が広がり始めた。
残念ながらこの夏は家族で出かけることは出来なかったが、夏祭り、マンションから見た花火大会、幼稚園の盆踊り大会、ささやかだけれど夏の思い出も作る事が出来た。
秋には近くの山で少し早い紅葉を楽しんだ。
夏が過ぎ、秋も過ぎ行き、もう真冬になった今も私はこの病気と一緒にいる。
でも本当に少しずつ、それも行きつ戻りつの連続だけれど、私の病気は良い方向に向いていると思っている。
今も薬は手放せないが、この病気と共存していくための必要悪のようなものだろうか、これのおかげで何とか人間らしい生活を営んでいけるのだと思える。
確かに何時治るのかという不安は常に心の中にある。
焦るなと言われても無理な時もある。
鬱の波の中は慣れているとはいっても苦しいものは苦しいし、泣き言も出る.
でもここまで来るのに私は実に多くの人の助けを借りてきた。
その人たちのためにも私は諦めない。
家族には特に多大な迷惑をかけている。
主人、娘は言うに及ばず、姉には痴呆の始まった父親の世話をすべて押し付けた形になっているし、主人の仕事仲間は主人が家を空けることがないようにと、遠くの現場仕事は彼らが代わって行ってくれている。
それも「お互い様やからな!」と笑いながら。
感謝してもし切れないほどの優しさを私は貰った。
それと、直接と言う形ではないが、某HPの掲示板で知り合った人たちにも随分と支えられた。
パソコンは私が鬱病になってすぐに主人が買ってくれていた。
外に出られない私のためと言う意味もあったろうと思う。
偶然にたどり着いた掲示板だったが、そこで私は病気の知識、薬の知識、病気との付き合い方を学んだ。
色んな人が同じ病気を抱えながらも、仕事をし、家事をし、子育てをしている。
そういった事実が私の励みになった。
これからも私は悩み、苦しみ、助けを求めながら歩いていくだろう。
先の見えないトンネルではあるけれど、一人で歩いているのではない。
沢山の手が私の手に繋がれている。
*******************************************
この暗い日記を読んでくださった方に心から感謝します。
この日記をきっかけに「鬱病」と言う病気が特殊な人に現れる病気ではない事、治療には周りの支えが必要な事。
それを理解してくれる人が増え、自然に受け入れられる社会になる事を望んでいます。
この闘病日記は、「心の底から笑える日まで」の最初のページに繋がっていきます。
これからはその日その日の事を書いていきますね。
コメント