父親の事
2001年2月20日今日父親が入院しました。
もう数え切れない位の入退院を繰り返して、それでも懲りない父親にあきれ返りながらもやはり少し胸が痛みます。
父は「アルコール依存症」です。
今回の入院はその道の専門病院で、今回は2回目の入院です。
こんな事を書いては「親不孝」と思われるかもしれませんが、私はあまリ父とは折り合いが良くありません。
私が距離を置いていると言ったほうが正解でしょう。
逃げていると言った方がもっと近いかもしれません。
私たち2人姉妹にとってはとても子煩悩で、働き者の父親だったと思います。
6人兄弟の長男として生れ、満足に学校も出ないままに働きに出、親を助け、兄弟を助け、その時代の人としては当たり前の事だったのかもしれませんが、誉められるべき人だったと思います。
たった一つ「酒好き」であるということ事を除けば。
昔から晩酌を欠かした事のない人でしたが、まぁそれは仕事のストレスを解消するほどのものでした。
しかし母が「癌」と診断されるや否や、その酒量は増えていきました。
辛くて淋しくて悲しくて・・・その逃げ道としてお酒で紛らわせる方法をとっただけのことです。
入院中の母への父の介護は、私から見ても古い時代に生れた男がそこまで出切るだろうかと思わせるほど、献身的なものでした。
母も私達子供が病院に付き添う事より、父に付き添ってもらう事を欲していました。
精一杯の事をして、でもその甲斐もなく母は逝きました。
また酒量は増えました。
母の入院中に祖父も逝き、最後を看取ったのも父です。
一人になった祖母を5人の娘は誰一人引取ろうと言い出しませんでしたので、癌の妻を抱え毎日病院に付き添いながら仕事もしなければならない父は、黙って引取りました。
母の葬儀を済ませ、法要をし、仕事に戻った父を待っていたのは転勤でした。
それから色々あって父は会社を辞め、新たな職場に勤め、そこで定年を迎えたのですが、それを待っていたかのように今度は祖母に手が掛かるようになったのです。
今度は祖母の介護の日々でした。
このときは私達子供が手助けをしたとは言え、その殆どは父が背負う事となりました。
5人の娘は時折やってきて祖母の顔だけ見て、帰りの電車賃を父にせがむような有様でしたが、父は内心怒りながらもじっと耐えてお金を与えたりしていました。
続きは次回書きます。
もう数え切れない位の入退院を繰り返して、それでも懲りない父親にあきれ返りながらもやはり少し胸が痛みます。
父は「アルコール依存症」です。
今回の入院はその道の専門病院で、今回は2回目の入院です。
こんな事を書いては「親不孝」と思われるかもしれませんが、私はあまリ父とは折り合いが良くありません。
私が距離を置いていると言ったほうが正解でしょう。
逃げていると言った方がもっと近いかもしれません。
私たち2人姉妹にとってはとても子煩悩で、働き者の父親だったと思います。
6人兄弟の長男として生れ、満足に学校も出ないままに働きに出、親を助け、兄弟を助け、その時代の人としては当たり前の事だったのかもしれませんが、誉められるべき人だったと思います。
たった一つ「酒好き」であるということ事を除けば。
昔から晩酌を欠かした事のない人でしたが、まぁそれは仕事のストレスを解消するほどのものでした。
しかし母が「癌」と診断されるや否や、その酒量は増えていきました。
辛くて淋しくて悲しくて・・・その逃げ道としてお酒で紛らわせる方法をとっただけのことです。
入院中の母への父の介護は、私から見ても古い時代に生れた男がそこまで出切るだろうかと思わせるほど、献身的なものでした。
母も私達子供が病院に付き添う事より、父に付き添ってもらう事を欲していました。
精一杯の事をして、でもその甲斐もなく母は逝きました。
また酒量は増えました。
母の入院中に祖父も逝き、最後を看取ったのも父です。
一人になった祖母を5人の娘は誰一人引取ろうと言い出しませんでしたので、癌の妻を抱え毎日病院に付き添いながら仕事もしなければならない父は、黙って引取りました。
母の葬儀を済ませ、法要をし、仕事に戻った父を待っていたのは転勤でした。
それから色々あって父は会社を辞め、新たな職場に勤め、そこで定年を迎えたのですが、それを待っていたかのように今度は祖母に手が掛かるようになったのです。
今度は祖母の介護の日々でした。
このときは私達子供が手助けをしたとは言え、その殆どは父が背負う事となりました。
5人の娘は時折やってきて祖母の顔だけ見て、帰りの電車賃を父にせがむような有様でしたが、父は内心怒りながらもじっと耐えてお金を与えたりしていました。
続きは次回書きます。
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