父の事3
2001年2月24日父が救急車で運ばれたのは、市内でも有名な脳外科でした。
意識は程なく戻りましたが、ろれつは回らず、話す事も父の妄想の世界の事ばかりでした。
看護婦さんが目を離すとすぐに点滴の管を抜いてしまったり、夜中に一人で外に歩いて出て行ったり、尋常な様子ではなかったようです。
姉は毎日父を見舞っていてくれましたが、そのうち夜中に病院から電話で呼び出され、
「始末に終えないので人手のない夜だけでも付き添っていて欲しい」
と言われました。
姉は仕事を持っていますので、仕事を終えた後、家の用事を済ませ、一晩中病院で付き添いをするのは体力的にも限界があります。
それでも仕方なく毎日姉は付き添いを続け、その日その日の状態を知らせてくれました。
このままでは姉が倒れてしまうのではないかという心配もありましたが、当時私の娘は10ヶ月、家を開けて病院に行くのは難しい問題でした。
病院に子供は連れてゆけず、誰かに娘を見ていてもらわねば病院の付き添いを代わってあげる事は出来ません。
主人の母に頭を下げて、大阪の我が家に来て貰えるように手はずを付けられたのは、入院から5日ほどたった頃でした。
私が病院にやっと駆けつけた時の父親の様子はと言うと、「痴呆症の老人」と言う言葉が一番当てはまると思います。
私の名前すらも思い出せず、マリア様だと呼んでいました。
前日までの医師の診たては「痴呆」と言う事でしたが、丁度その日、系列病院の専門の先生が父の様子を見ておかしいと思われ、急遽翌日からそちらの病院に移されることになりました。
翌日そちらの病院で受けた診断は、
「アルコールの禁断症状」と言う事でした。
肋骨を折って入院したが為に酒が飲めず、丁度禁断症状が現れた時に姉が出くわしたと言う事なのです。
アルコールの為に脳が萎縮し始めていて、断酒できなければどんどん痴呆の症状が出てくるだろうと言う事でした。
姉と二人その診断を聞いた時、痴呆症じゃなかったと言う安堵感と、「またか」と言うあきれた思いとが綯交ぜになってとても複雑な気持ちになった事を覚えています。
結果的に酒の飲み過ぎの後始末をさせられた形になった姉の立腹はもっともな事でした。
その病院では付き添いは必要なかったので、体力的に楽にはなったものの、退院後の父親をどうするかと言う問題が、私達姉妹の頭を悩ませる事となりました。
それでも見た目には何とか普通に見え出した父親の退院の日取りは決まってしまいます。
退院の日、迎えに行った父にはまだ少しおかしな行動がありました。
排泄が上手く出来ず、下着が汚物で汚れていても気がつかないようなのです。
不安ながらも自宅に連れ帰り、汚れた沢山の洗濯物の処理をし、食事に不自由がないように宅配料理の手はずを整えたりしてから、とりあえずその日は父を一人残して私達はそれぞれの家に帰りました。
次の朝やはり父が心配で、義母に娘を任せ私は一人で父の家に向かいました。
昼前に着いたら父がいません。
しばらく家を片付けながら待っていると、両手に沢山の酒パックを下げた父が帰ってきました。
「何でお酒買って来たの?飲んじゃいけないって病院であれほど言われたでしょ!」
父はきょとんとしています。
「先生が少しなら飲んでもええってゆうた」
話が食い違っています。
父は入院した事は覚えていましたが、お酒の禁断症状で入院したのではなく、肝臓が悪くなった為だと思っているのです。
医師の説明を3人で聞いた筈なのですが、自分に都合の悪い事は記憶から抜け落ちているのです。
それからまた数日間に起こった事を一から説明すると、
「そんな事があったんか・・・」
「もう酒は飲まん」
と飲まない約束をするのですが、翌日になるとまた記憶から消えているのです。
「仕方ない、最後の選択をしよう!」
姉が言いました。
アルコール依存専門の病院に入院させる事を私達は選びました。
もうそれしか手は残っていなかったのです。
意識は程なく戻りましたが、ろれつは回らず、話す事も父の妄想の世界の事ばかりでした。
看護婦さんが目を離すとすぐに点滴の管を抜いてしまったり、夜中に一人で外に歩いて出て行ったり、尋常な様子ではなかったようです。
姉は毎日父を見舞っていてくれましたが、そのうち夜中に病院から電話で呼び出され、
「始末に終えないので人手のない夜だけでも付き添っていて欲しい」
と言われました。
姉は仕事を持っていますので、仕事を終えた後、家の用事を済ませ、一晩中病院で付き添いをするのは体力的にも限界があります。
それでも仕方なく毎日姉は付き添いを続け、その日その日の状態を知らせてくれました。
このままでは姉が倒れてしまうのではないかという心配もありましたが、当時私の娘は10ヶ月、家を開けて病院に行くのは難しい問題でした。
病院に子供は連れてゆけず、誰かに娘を見ていてもらわねば病院の付き添いを代わってあげる事は出来ません。
主人の母に頭を下げて、大阪の我が家に来て貰えるように手はずを付けられたのは、入院から5日ほどたった頃でした。
私が病院にやっと駆けつけた時の父親の様子はと言うと、「痴呆症の老人」と言う言葉が一番当てはまると思います。
私の名前すらも思い出せず、マリア様だと呼んでいました。
前日までの医師の診たては「痴呆」と言う事でしたが、丁度その日、系列病院の専門の先生が父の様子を見ておかしいと思われ、急遽翌日からそちらの病院に移されることになりました。
翌日そちらの病院で受けた診断は、
「アルコールの禁断症状」と言う事でした。
肋骨を折って入院したが為に酒が飲めず、丁度禁断症状が現れた時に姉が出くわしたと言う事なのです。
アルコールの為に脳が萎縮し始めていて、断酒できなければどんどん痴呆の症状が出てくるだろうと言う事でした。
姉と二人その診断を聞いた時、痴呆症じゃなかったと言う安堵感と、「またか」と言うあきれた思いとが綯交ぜになってとても複雑な気持ちになった事を覚えています。
結果的に酒の飲み過ぎの後始末をさせられた形になった姉の立腹はもっともな事でした。
その病院では付き添いは必要なかったので、体力的に楽にはなったものの、退院後の父親をどうするかと言う問題が、私達姉妹の頭を悩ませる事となりました。
それでも見た目には何とか普通に見え出した父親の退院の日取りは決まってしまいます。
退院の日、迎えに行った父にはまだ少しおかしな行動がありました。
排泄が上手く出来ず、下着が汚物で汚れていても気がつかないようなのです。
不安ながらも自宅に連れ帰り、汚れた沢山の洗濯物の処理をし、食事に不自由がないように宅配料理の手はずを整えたりしてから、とりあえずその日は父を一人残して私達はそれぞれの家に帰りました。
次の朝やはり父が心配で、義母に娘を任せ私は一人で父の家に向かいました。
昼前に着いたら父がいません。
しばらく家を片付けながら待っていると、両手に沢山の酒パックを下げた父が帰ってきました。
「何でお酒買って来たの?飲んじゃいけないって病院であれほど言われたでしょ!」
父はきょとんとしています。
「先生が少しなら飲んでもええってゆうた」
話が食い違っています。
父は入院した事は覚えていましたが、お酒の禁断症状で入院したのではなく、肝臓が悪くなった為だと思っているのです。
医師の説明を3人で聞いた筈なのですが、自分に都合の悪い事は記憶から抜け落ちているのです。
それからまた数日間に起こった事を一から説明すると、
「そんな事があったんか・・・」
「もう酒は飲まん」
と飲まない約束をするのですが、翌日になるとまた記憶から消えているのです。
「仕方ない、最後の選択をしよう!」
姉が言いました。
アルコール依存専門の病院に入院させる事を私達は選びました。
もうそれしか手は残っていなかったのです。
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