近づくお別れの日

2001年3月21日
娘の通う幼稚園で、今日は年長組の卒園式がありました。

入園した頃は赤ちゃんのように幼く頼りなく感じたでしょうに、今日の年長さんはとてもきりっとして見えました。

我が娘はまだまだ赤ちゃんですが、2年後にはこうして卒園の日を迎えるんだと思うと、そう遠くない未来が楽しみに、そしてちょっと切なく感じられました。

私自身、入園式の日は自力で歩く事もあやしい状態だったのが、今日は自転車に娘を乗せて送ってくる事が出来るようになっている事を考えると、この長かった一年、子供も沢山の経験を積んで少しはお姉ちゃんになったのでしょうね。

昨日体調が悪かったので、今日の卒園式には娘の送り迎えは無理かな?お休みさせるかな?なんて考えたのですが、娘の強硬な反対にあってしまい、頑張って送り迎えをする事になってしまいました。

娘の弁は「明日で年長さんとさよならなんだから、絶対行きたいよー」でした。
卒園式の意味も解るようになっていたんですね。

もう1つさよならが近づいています。

親子共々とっても仲の良かった友達が、ご主人の転勤で横浜に引っ越す事が決まったのです。

これは私には非常にショックな知らせでした。

お互いの家を行き来し、子供を預ける事も預かる事もあり、家族ぐるみで仲良くさせてもらっていたので、今は近づくお別れの日が悲しくて仕方ありません。

娘にはまだはっきりとは話していません。

悲しむ事が判っているから、直前までは今までと同じ様に、と言う友達の申し出で、今はまだ話さない事に決めたのです。

春はお別れの多い季節です。
桜の開花が楽しみでもあり、悲しくもあります。

父の事8

2001年3月17日
2月の半ばに姉から電話がありました。

「お父さん入院させるからね」。
ただそれだけで姉の気持ちは痛いほど解りました。

姉の所にその5日ほど前からおかしな電話が掛かって来ていたそうです。
相変わらずのろれつの回らない口調で、義兄に来て欲しいと言う内容らしいのですが、やはり父の妄想の中から出てきた用事でした。

姉が心配して見に行くと、酩酊状態の父と酒パックの空き箱が山と突っ込まれたごみ箱が目に入ったそうです。

一日中飲んでいたようで、昨日の記憶も吹っ飛んで、お酒を買った事も飲んだ事も覚えていないと話したそうです。

散乱したレシートからは毎日900mlのパックを買いに行っていた事実が読んで取れました。
一日に900mlも飲めば人間誰もが記憶もなくすでしょう

姉はすぐに主治医に相談に行き、アルコール依存症専門病院への入院手続きを取ってもらったそうです。

父にもきちんと、依存症を治さないと介護ヘルパーも頼めない事、老人施設にも行けない事などを一つ一つ説明し本人も納得し入院の準備をしました。

朝、姉が病院に送っていく時やはりお酒の匂いがしていたそうです。
依存症を直す為と解っている筈なのにやはり朝から飲まずにはいられない父。

こうする事が一番良いのだと自分に言い聞かせて、この道を私達は選びました。
父にとってはそうではなかったかも知れませんが・・・。

取りあえず父の病気の事はこれで落ち着いたと思っていました。
お酒から隔離された状態に父を置く事で快方に向かうだろうと。

入院してしばらく経ち、私は久しぶりに実家を訪れました。
鬱病になってからというものほとんど寄り付いていなかった家です。

留守宅の片付けに行ったのですが、家の中は姉があらかじめ片付けておいてくれたとは言え、やはり男の一人暮らし、掃除が行き届いてない上に整理整頓がされておらず、勝手気ままに目に付くものを放りこんだ箪笥に閉口しました。

洗濯、掃除はあらかじめ想像がついていたので構わないのですが、思わぬ事もに出くわす羽目になりました。

父の買物癖は以前に書いたと思うのですが、留守宅に信販会社から電話があり、父が20万相当の健康寝具を買っていたことが判ったのです。

信販会社から引き落としが出来ないと言われ、姉がその健康寝具を買ったであろう会社に問い合わせてみて初めて判った事です。

父の口座にはもうそんなお金などないはずなのに、父にもきちんと説明し、高額のものを買う時は姉に相談してからと言う約束をしていたはずなのに・・・。

どうして買ってしまったのか・・・?

やはり父にはもう金銭感覚はないように思われました。

病院の父からは、お金を落としただの、小銭が欲しいだのと言う電話が毎日のように掛かってきます。
お金は一切持つ事は出来ないと電話で説明してもまた翌日同じ事のくり返しです。

もう一人暮らしは出来ない、これが主治医の判断でした。

これが今の父親の現状です。

これから先は痴呆が進むのか、またアルコールが抜けて少しは元の父に近づくのか私達にはわかりませんが、これからもこの父と共に私達は生きていかなくてはなりません。

親が老いて行くのは当たり前の事だけれど、そのスピードの速さに戸惑い、着いて行けなかった娘達の話として読んで頂ければと思い書きました。

きっと誰もが経験するはずの事ですから。

父の事7

2001年3月11日
父が禁断症状の発作を起こしながらも一人で暮らして行かないといけないと言うのは、他人様から見ればとても可哀想な事なのかもしれませんね。

一人で生活させればお酒に走ると言う事が解っていながら、それでも引き取って一緒に暮らさないなんて、と思う人も沢山居たと思います。

それでも私たちにはそう出来なかった・・・それは私たちの罪であり自分達の生活を守りたいがゆえの我がままだと言われても仕方ありません。
本当にそういう部分もあったのですから。

姉には4人の子供が居ます。
丁度今一番上の子は専門学校に、2番目の子もこの春から専門学校に進学します。
3番目は中学生、4番目はこの春から小学校に上がります。
今が一番学費がかかる時期です。

姉が働かないと子供達に彼らが望む教育を受けさせる事は出来ないでしょう。
夫婦と4人の子供達、それに同居している姑。
6人分の家事をこなしながら働きに出ている姉にこれ以上の荷は負わせられません。

私とて鬱病と言う大きな荷物と、4歳の子供を育てる事で精一杯です。

ここに父親を背負う事は「共倒れ」と主治医にも言われました。

という訳で、私達の考えた父の処遇は、「いずれは老人保健施設へ」と言うものでした。

この言葉は姉妹の胸の中にはずっと前からありましたが、どちらもその言葉を言い出すことが出来ずに居ました。
ずっと2年間も・・・。
今年に入って父の様子が悪い方へ転がって行くまでです。

それまではそれなりに良い時期と悪い時期を繰り返しながら、何とか一人で暮らしていた父でしたが、正月が過ぎた辺り、父の記憶力があやふやになり、昼間でもお酒の匂いをさせている事が多くなったと姉から連絡がありました。

前日に話した筈の事柄が次の日には全く記憶から抜け落ちていたり、全く違う内容に摩り替わったりし始めたのです。

きれいな話ではないのですが、トイレの方も失敗が多くなっているようでした。

おしっこが漏れてズボンを濡らしていても気が付かなかったり、布団の中で漏らす事もあったようです。

そして2月、とうとう入院をさせざるを得ないところまで父の病状は悪くなっていきました。

父の事6

2001年3月7日
父がどんなに買い物をしたって、それは父のお金で買ったもの、私たちに口出しは出来ない。
そうは判っていてもやはり父の買い物依存は私たちの目に余るものでした。

時々は釘を刺しては見るものの、それは止められないようでした。

「物を買って手に入れる」と言う事でしか満足感が得られなかったのでしょう。
その他に何も幸せと言える事がなかったのかもしれません。

その頃でしょうか、私が発病したのは。

その時点ではまだ何の病気かは判っておらず、ただめまいがひどく寝たり起きたりを繰り返していました。

当時2才の子供の世話も満足に出来なかったので、主人が留守をする時は、姉や主人の母に応援を頼む事もしばしばありました。

ある時主人が一週間程仕事で家を空けることになり、その時は誰も手が開いておらず、父に来てもらう事になったのです。

私としても父ではいささか心もとなく思いましたが、娘の世話と病院に行く間の留守番を頼むだけでもと思い、父は我が家にやってきました。

我が家に来て3日目くらいのことでしょうか、夕食を終え、私は布団で横になっていたのですが、洗い物をしている父の様子が変なのです。

「おとうさん!」
大きな声で呼びましたが返事はありません。

「おとうさん、大丈夫?」
何度か呼んで近づこうとした時、父が水浸しのざるを持ったままこちらに歩いて来、そのまま横倒しに倒れたのです。

私も娘も驚いて父を抱き起こそうとしましたが、「あうっあうっ」と言いながら口から泡を吹き、体は痙攣が始まっていました。
意識はありません。

脳の病気かも知れないけれど、またお酒の禁断症状かもと思い、急いで姉に電話をし症状を伝えました。

姉は私の話を聞いて、お酒の禁断症状だと思うから心配ない事と、10分ほどで意識は戻ると思うけれどそうでない場合はもう一度電話をしてくるようにと言い、その場は一旦電話を切りました。

姉の言葉どおり10分程すると父は自分で立ち上がり、また台所に歩いて向かおうとしました。

でも私は父の手をひき布団に寝かせ、その日はそのまま休むように言いました。
発作の事は判らないようでしたが、とにかく寝るようにと言うとおとなしくそのまま寝てくれました。

突然の事で動揺はしましたが、姉はこの発作を何度も見ているらしく心配はないという事でしたので、とりあえず朝まで様子を見ることにしたのです。

翌朝、父は早くから起き出し自分でコーヒーを入れて飲んでいました。

でも「旦那さんは朝早くに仕事に出ていったんやなぁ」と頓珍漢な事を話します。

「仕事で1週間留守にするから、お父さんが来たんでしょうが」というと、
「そうやったかいなぁ」とやはり判っていないようでした。

午前中に姉が駆けつけてくれ、一連の話を聞き、やはり禁断症状だろうと言う話になりました。

父は我が家に来てすぐに酒パックを3個買ってきていたのですが、一日目に1個飲んだだけであとの2個は買い物袋に残ったままだったのです。

きっと買って来た後どこに置いたのか忘れてしまったのでしょう。
けれど私に尋ねる事も出来ず、そのまま飲まずに居てアルコールが切れて発作を起こしたのです。

姉の話ではこの発作を起こす回数はどんどん増えていると言う事でした。

父はその日姉に連れられて帰っていきました。

その後もこの発作は長い間続きました。

父の事5

2001年2月26日
父が禁断症状を起こして、救急車で病院に運ばれたのは2月のことでした。

冬が終わり春を見送り、夏に父は退院してきました。

お酒のすっかり抜けた父は、ピンク色の頬をしてすっかり元気を取り戻して家に帰ったのです。

退院時の話では80%の人がまたお酒におぼれるようになるとか・・・、何より本人の意思が一番肝心であるが、家族の支えも必要であると言う事でした。

本人の弁は、
「これからのわしを見てくれたら判る!」
と言う頼もしいと言うか、なんだかおかしな言葉でした。

姉が頻繁にのぞいてくれるとは言え、一日の大半は一人で過すわけですから、病院からはお酒を飲むと吐き気がする薬と言うものが処方されていました。

父にそういう薬であると言う事は話しませんでしたが、長い病院生活で多分そういう薬が出されるであろうと言う事は、同室の患者さんから知らされていたでしょう。

始めのうちは姉の目の前で飲まされていましたが、姉が来ない日は飲まないことが多かったようです。

しばらくしてから、私は姉からの電話で父がお酒を飲んでいることを知らされました。

姉もそれに気がついた時に「あれほど止めると誓ったのに!」、と父に詰め寄ったようですが、やはり父は覚えていなかったのです。

自分が何のために入院したかも、その前に禁断症状で入院した事も・・・。

また一から説明です。

姉は紙に書いて、何時何が起こって入院したか、どんな様子だったか、アル中を治す為に長い間入院したのだと言う事、それらを細かく説明しました。

そしてその時は「もう酒はやめる!」、と言う誓いを立てるのですが、2日もしないうちにろれつの回らない口調の電話は掛かってきました。

姉も私も、父に振り回される事に疲れていました。

半ば諦め気味に、それでも時々は様子をみに行ったりもしたのですが、この頃から父の話には嘘が多くなっていました。

それはお酒に関する事だけではなく、日常生活について、お金に関して、殆どすべての話に嘘が見えるようになっていました。

お金遣いも派手になりました。

元々財産があったわけではないのですが、退職金、田舎の家を売ったお金、保険の払戻金、少しばかりの蓄えはあったようです。

気がついたとき、それらのお金は消え、かわりに家にはおびただしい健康食品、健康器具、新しい電化製品、新しい車などがあったのです。



父の事4

2001年2月25日
アルコール依存症の専門病院は、実家から車で40分ほど走った山の中にありました。

周りに人家や商店などは一切なく、陸の孤島のような所です。
こんな所でなくては、理性を失った人達はどんな事をしてでもお酒を買いに行ってしまうんだと言う事実を突き付けられたような気がしました。

入院の手続きなどは姉が一人で全部してくれた為、私が訪れた時には入院からかなりの日数が経っており、父の様子もすっかり落ち着いたように見えました。

主治医の先生に父の病状の説明を受けたのですが、
アルコール依存としては父はかなり軽症の部類に入り、本人次第ではあるがかなり高い確率で完治する事が期待できるとの事でした。

ただ家に帰っても一人暮らしを続ける事は可能ではあるけれど、周りの注意と支えが必要であると言う事も言われました。

淋しいから、暇だから、話し相手がいないから、
それで飲むのだとしたら、そういう環境をなるべく造らないような周りの配慮が必要だと言う事です。

私達は頭を抱えます。

それは一緒に住んでいないと殆ど不可能に近いことだと思えたのです。

とにかく、お酒に逃げない強い意思を父に持ってもらうことを期待するしかありません。

入院から一ヶ月、主人の仕事の都合で留守の実家に居候していた私のところに、一度試しに外泊させてみようと言う話が持ち上がりました。

一泊だけですが、外の自由な環境で本当にお酒を我慢できるかを見てみると言うのです。

一泊だけと言う事で、私たちも大丈夫ではないかと思っていたのですが、その日に限って娘が熱を出し、病院に連れて行ったり世話をしたりで、あまり父の側にはいてあげられませんでした。

それでも久しぶりに私たち家族と食事をし、孫である私の娘と遊んだりして、翌日父は主人の車で病院に戻っていきました。

父を送り出した後、掃除をしながら父の部屋をそれとなく探ってみた所、開けてからまだ日の経たない缶ビールの空き缶が2つ見つかったのです。

姉に電話をし、すぐにそれを見てもらいました。

やっぱりね、という思いと、裏切られた思い、その両方の思いが交錯します。

ここを踏ん張れば退院にこぎつけられると言う事も知っていながら、我慢できない父。

姉はがっかりした様子で重い受話器を取り、病院に事の次第を報告しました。

父にも缶ビールの事は問いただしたようです。

でも、悪いとは思っていたけれど、缶ビールなら構わないだろうと思ったと弁明したそうです。

自分が何のために病院に入っているかも、また忘れていました。
肝臓が悪いからだと思っていたそうです。

父の入院は思いのほか長くなったのです。


父の事3

2001年2月24日
父が救急車で運ばれたのは、市内でも有名な脳外科でした。

意識は程なく戻りましたが、ろれつは回らず、話す事も父の妄想の世界の事ばかりでした。

看護婦さんが目を離すとすぐに点滴の管を抜いてしまったり、夜中に一人で外に歩いて出て行ったり、尋常な様子ではなかったようです。

姉は毎日父を見舞っていてくれましたが、そのうち夜中に病院から電話で呼び出され、
「始末に終えないので人手のない夜だけでも付き添っていて欲しい」
と言われました。

姉は仕事を持っていますので、仕事を終えた後、家の用事を済ませ、一晩中病院で付き添いをするのは体力的にも限界があります。

それでも仕方なく毎日姉は付き添いを続け、その日その日の状態を知らせてくれました。

このままでは姉が倒れてしまうのではないかという心配もありましたが、当時私の娘は10ヶ月、家を開けて病院に行くのは難しい問題でした。

病院に子供は連れてゆけず、誰かに娘を見ていてもらわねば病院の付き添いを代わってあげる事は出来ません。

主人の母に頭を下げて、大阪の我が家に来て貰えるように手はずを付けられたのは、入院から5日ほどたった頃でした。

私が病院にやっと駆けつけた時の父親の様子はと言うと、「痴呆症の老人」と言う言葉が一番当てはまると思います。

私の名前すらも思い出せず、マリア様だと呼んでいました。

前日までの医師の診たては「痴呆」と言う事でしたが、丁度その日、系列病院の専門の先生が父の様子を見ておかしいと思われ、急遽翌日からそちらの病院に移されることになりました。

翌日そちらの病院で受けた診断は、
「アルコールの禁断症状」と言う事でした。

肋骨を折って入院したが為に酒が飲めず、丁度禁断症状が現れた時に姉が出くわしたと言う事なのです。

アルコールの為に脳が萎縮し始めていて、断酒できなければどんどん痴呆の症状が出てくるだろうと言う事でした。

姉と二人その診断を聞いた時、痴呆症じゃなかったと言う安堵感と、「またか」と言うあきれた思いとが綯交ぜになってとても複雑な気持ちになった事を覚えています。

結果的に酒の飲み過ぎの後始末をさせられた形になった姉の立腹はもっともな事でした。

その病院では付き添いは必要なかったので、体力的に楽にはなったものの、退院後の父親をどうするかと言う問題が、私達姉妹の頭を悩ませる事となりました。

それでも見た目には何とか普通に見え出した父親の退院の日取りは決まってしまいます。

退院の日、迎えに行った父にはまだ少しおかしな行動がありました。

排泄が上手く出来ず、下着が汚物で汚れていても気がつかないようなのです。

不安ながらも自宅に連れ帰り、汚れた沢山の洗濯物の処理をし、食事に不自由がないように宅配料理の手はずを整えたりしてから、とりあえずその日は父を一人残して私達はそれぞれの家に帰りました。

次の朝やはり父が心配で、義母に娘を任せ私は一人で父の家に向かいました。

昼前に着いたら父がいません。

しばらく家を片付けながら待っていると、両手に沢山の酒パックを下げた父が帰ってきました。

「何でお酒買って来たの?飲んじゃいけないって病院であれほど言われたでしょ!」

父はきょとんとしています。

「先生が少しなら飲んでもええってゆうた」

話が食い違っています。

父は入院した事は覚えていましたが、お酒の禁断症状で入院したのではなく、肝臓が悪くなった為だと思っているのです。

医師の説明を3人で聞いた筈なのですが、自分に都合の悪い事は記憶から抜け落ちているのです。

それからまた数日間に起こった事を一から説明すると、
「そんな事があったんか・・・」
「もう酒は飲まん」
と飲まない約束をするのですが、翌日になるとまた記憶から消えているのです。

「仕方ない、最後の選択をしよう!」
姉が言いました。

アルコール依存専門の病院に入院させる事を私達は選びました。

もうそれしか手は残っていなかったのです。

父の事2

2001年2月21日
母が亡くなる前から父も肝臓を壊し、病院に通っていましたが、その後新しい仕事についた頃から、時折酒量を過し肝機能検査の数値を上げ、入院をするようになりました。

退院する時は「もう決して飲まない」と誓うのですが、一週間もたたないうちに自分に都合のいい理由を見つけては飲みだすのです

私にはどうしてそこまでお酒を飲むのか理解できませんでしたから、そのたびに父を責め、酒量を減らすように説得をしてきました。

周りの話を聞くと父は若い頃から辛い事、淋しい事、困難な事にぶつかるたびにお酒に逃げていたようです。

そんな父が情けなくて、苛立った私は家を出ました。

家に残ったのは父と祖母の2人です。

祖母は父を止めることが出来ない人でしたから、酒量はますます増え、お酒の席でのトラブルも目に付くようになりました。

私が家を出て3年、結婚をして大阪に移り住んだ直後祖母はこの世を去ります。

今度こそ本当に一人、誰も止める人間はいません。

一人になった淋しさもあいまって、朝、昼、夜、時間に関係なく飲む日々が始まりました。

もちろん一人になった父を放って置くはずもなく、私達姉妹は何かある度に父の元を訪れ、父に話をし、酒量を減らすように説得もしますが、その場逃れの返事をしてはまた同じ事のくり返しです。

何度ももう飲まないとの約束を信じ、裏切られつづけた私たちにはもう父を信じる事は出来なくなっており、段々父の元から足は遠のいていきます。

ある晩、したたか酔ったまま用を足しに立ち上がった父は転倒し、肋骨を折り入院をしたときから事態は悪化します。

骨折自体は大した事はなかったので、テープで固定してもらい翌日に退院をしたのですが、夕飯を運びに行った姉の前で父は痙攣を起こし、身動きできなくなったのです。

姉は慌てて救急車を呼び、そのまま脳外科が専門の病院に運びこまれました。

意識はなく、姉も連絡を受けた私も覚悟をしたときでした。

父親の事

2001年2月20日
今日父親が入院しました。

もう数え切れない位の入退院を繰り返して、それでも懲りない父親にあきれ返りながらもやはり少し胸が痛みます。

父は「アルコール依存症」です。

今回の入院はその道の専門病院で、今回は2回目の入院です。

こんな事を書いては「親不孝」と思われるかもしれませんが、私はあまリ父とは折り合いが良くありません。
私が距離を置いていると言ったほうが正解でしょう。
逃げていると言った方がもっと近いかもしれません。

私たち2人姉妹にとってはとても子煩悩で、働き者の父親だったと思います。
6人兄弟の長男として生れ、満足に学校も出ないままに働きに出、親を助け、兄弟を助け、その時代の人としては当たり前の事だったのかもしれませんが、誉められるべき人だったと思います。

たった一つ「酒好き」であるということ事を除けば。

昔から晩酌を欠かした事のない人でしたが、まぁそれは仕事のストレスを解消するほどのものでした。

しかし母が「癌」と診断されるや否や、その酒量は増えていきました。
辛くて淋しくて悲しくて・・・その逃げ道としてお酒で紛らわせる方法をとっただけのことです。

入院中の母への父の介護は、私から見ても古い時代に生れた男がそこまで出切るだろうかと思わせるほど、献身的なものでした。
母も私達子供が病院に付き添う事より、父に付き添ってもらう事を欲していました。

精一杯の事をして、でもその甲斐もなく母は逝きました。

また酒量は増えました。

母の入院中に祖父も逝き、最後を看取ったのも父です。

一人になった祖母を5人の娘は誰一人引取ろうと言い出しませんでしたので、癌の妻を抱え毎日病院に付き添いながら仕事もしなければならない父は、黙って引取りました。

母の葬儀を済ませ、法要をし、仕事に戻った父を待っていたのは転勤でした。

それから色々あって父は会社を辞め、新たな職場に勤め、そこで定年を迎えたのですが、それを待っていたかのように今度は祖母に手が掛かるようになったのです。

今度は祖母の介護の日々でした。

このときは私達子供が手助けをしたとは言え、その殆どは父が背負う事となりました。

5人の娘は時折やってきて祖母の顔だけ見て、帰りの電車賃を父にせがむような有様でしたが、父は内心怒りながらもじっと耐えてお金を与えたりしていました。

続きは次回書きます。

甘えんぼ2人

2001年2月19日
今日は旦那さんが免許の更新の手続きに行った為、お仕事はお休み!

朝のうちに更新に行ったのでず〜っと家にいてくれて嬉しい!

甘えまくるぞーっと思っていたら、私が病院で自律神経の発作を起こしてしまい、ボロボロになって帰ってきてしまいました。
今日はずーっと寝たり起きたりです(涙)。

でも旦那さんはマメですねー。
朝から娘の布団を干したり、洗濯物も干してくれ、確定申告の準備、果ては娘を歯医者さんに連れて行ってくれてます。

今日休む事にしたのも、娘の歯医者さんの予約が今日しか取れなかったからで、歯医者の予約に合わせて休むんですね〜。(笑)

慣れない所に出かけるのが苦手な私のために、いつも彼は気を使ってくれます。

その後お買い物に行って晩御飯も作ってくれるそうです。
私が昨日から吐き気と腹痛で苦しんでいたからでしょうね、消化の良いものを作ってくれるとか・・・。
期待しちゃいましょう。

私はというと今日のお昼まで絶食です。(泣)

早く食べたいよー!

こんなに良くしてくれる旦那さん、他にいないでしょ?
おのろけです〜〜〜〜〜!

彼とはお見合い結婚です。
今時珍しいのですが、お互いに
「残り物に福」と言い合っています。

私にとっては福ですが、彼にとってはどうでしょう?

ただの迷惑な女になりたくないと思う、今日の私です。

体力の低下か?

2001年2月18日
ここのところお出かけが続いています。

と言っても調子が良いわけではなく、どちらかと言えばあんまりかんばしくない状態・・・。
それでも着付け教室に行ってみたり、芝居を観に神戸まで出かけたりしています。

帰って玄関にたどり着くや否や、横にならないといけないほどの疲労感に襲われますが、それでも出かけたいのです。

家に一人でいると孤独感にさい悩まされるからかもしれませんし、外に出ないと取り残されていくような怖さを感じるからかもしれません。

したいことを出来なかったりするときっと後悔するからと言う理由で出かける事もありますが、何かに駆り立てられて出かけていくのは事実です。

出かけた次の日は決まって不調なのですが・・・。

これってただの体力低下による疲れなのでしょうか?
ん〜、悩むところです。

昨日は神戸から10時半位に元気に帰宅しましたが、今日は腹痛と倦怠感で使い物にならない有様です。

情けなや・・・。

「気持ちだけが先走っているよ。」
「もっと自分の体をいたわってやってよ。」というサインなのかも知れませんね、この不調は。

それにしても辛いよー!

私の自律神経入ったいどんな風に狂っているのでしょうか?
納得の行く様に説明してくれる人いないかしら・・・。

心の中の大嵐。

2001年2月14日
やっと気分も落ち着いてきました。
まだまだめまいだけは取れないけれど、これは永年のお付き合いなので、諦めています。

先日の発作について書きそびれました。

日曜日、我が家は日ごろ淋しい思いをさせる事の多い娘の為に、
「ハローキティのバレンタインワールド」と言うイベントに大阪ドームまで出かけたのでした。

我が家からは小一時間で行ける場所なので、私もまぁたまの事だからと同行しました。

東京のサンリオピューロランドから出張してきたと言うダンサーのショウとかはなかなか楽しめましたが、他の催しと言えば・・・金儲け第一主義。

高い入場料を払ってドームに入り、またささやかな遊びをするのにも「お遊び券」と言うチケットを買わねばなりません。

極めつけ、キティちゃん、マイメロディの風船が1つ1600円もします。
それが飛ぶように(実際飛ぶのですが)売れているんですねー。

少子化日本の将来を憂えるありさまです。
しっかりしろよ、親!

と言う我が家も買ってしまいました、マイメロの風船(^^ゞ。

まあ、機嫌よく娘も遊び、電車を乗り継いで帰ったのはいいのですが・・・・来ちゃいました・・・。

鬱の発作です。

帰った途端にもう立っていられない位にしんどくて、倒れこむように横になったのですが、時すでに遅かりし・・・落ちました。

心の中が嵐です。

胸の中は何か正体が解らないもので一杯になり、苦しくてたまらない。

吐き出したい言葉はたくさんあるのに、それが何なのか、自分にわからない。

大粒の雨は心の内側を激しく打ちつけて、溢れた大水は涙となってこぼれ落ちる。

発作は同じ人間が2人と居ないのと同じで、きっと一人一人違うのでしょうが、私の場合言葉で表現するとこんな感じです。

泣いて泣いて、そして3時間後、薬のおかげでやっと落ち着きを取り戻しました。

どんなに楽しくて大笑いしていても、一瞬にしてここまで落ちてしまうのです。

こんな女と一緒に居る家族はたまったものではないでしょうね。
私だったら嫌だな・・・。

でもこんな発作とも言える状態はたびたび私を襲います、まだまだ付き合わないといけません。

因果な病気。

この日から私は夕方になると不安になります。

怖くて、そしてめまいが始まります。

私の脳は壊れていく・・・、そんな怖さが私の中にはあります。

鬱病発症から10ヶ月、戦いはまだまだ終わりそうもありませんね。



落ちた・・・。

2001年2月12日
昨日の発作の後遺症か、心身共に調子悪いです。

やっぱり涙が出ちゃう。

めまいもあるし午前中はプラス腹痛もあった。

こんな日は外に出る気もしないし、何にもしたくない。
こうしてPCに向かって気持ちを吐き出すことで、ようやく自分を制御できている感じです。

これは鬱なのか、疲れから来る心身磨耗状態なのか、それすら判りません。

とにかく休みたい・・・。
夢を見ないで眠りたい。

明日は通院日。
何とかしてもらいたいな・・・。

苦しいよ・・・苦しいよ・・・。

私の浪費癖

2001年2月10日
長かった一週間ももう終わりに近づいています。

旦那さんは一日早く出張から帰ってきました。
やっぱりほっとしました、この人がいるだけで家の中にドンと柱が一本立っている、そんな安心感があります。

主人という言葉は好きではないけれど、確かにこの家の主だなぁ・・・そんな感じ。

帰ってきたとは言え、今日もお仕事に行っていない訳で、当然のごとく娘と2人。

今日は広告に載っていた質屋さんに行って来ました。

なんでも某百貨店の催しに出店されてるそうで、お店からブランドバックとか宝飾品とかがなくなっているので、その間呉服のバーゲンをしているそうです。

小物の掘り出し物があると書いてあったので、ちょっと覗いてみようかなと行ってみたのですが、見てしまうと&お店の人に勧められると欲しくなってしまうんですねー(^^ゞ

と言う事で小紋を一枚お買い上げ、てへへ。

金額は9000円也。

そんなに高い買い物ではないし、私のお小遣いで買える範囲の物。
でもこの間からネットオークションで色々落札していて、いくら使ったか解らないほど。

常に何か欲しいものを探しているみたいで、自分でも怖いです。

買い物依存?

我が家の亡くなった祖父はそういうケがあったようで、実家の父もまさに同じ性格。
実家に行くと常に新しいものが買っておいてあります。

あの父親に似ているとしたら・・・寒気がするほど嫌!

でも何かを買い続けていないと楽しくない。

高いものでなくて構わない、気に入ったハンカチ一枚で気が済むのかも知れないし、そんなに気にするほどの事はないのかも知れないけど・・・不安。

私はどんどん壊れていってるんじゃないだろうかと・・・。

買ったものの殆どは旦那さんには内緒です。
気がついているようではあるけれど、何にも言わない旦那さん。

お小遣いで何を買おうが構わないそうです。

でも、今日の着物の事は話す勇気はないでしょう。
今すぐに必要とも思えないものをどうして買ってしまったのか、自分でも説明できないから・・・。

病気とはいえ、こんなに満ち足りた生活を与えられていると言うのに、まだ心にぽっかりと穴があいていて、その穴を埋めるために物を買うのでしょうか。

自分で自分の心が量りかねています。

誰か、教えてください・・・私は変なの?

2人生活3日目

2001年2月7日
月、火、水、何とか3日目にこぎつけました、娘と2人生活。

本当はちょっとお休みがあって、昨日の夜9時頃に旦那さんは3時間かけて帰ってきてくれました。
一日顔が見られないだけでパニくってしまう嫁の為?それとも娘の顔が見たいから?

どっちでもいいです、もう甘えるしかないっ!

相変わらず風邪で幼稚園をお休みしている娘は、遊び相手が帰ってきたと思い、遊んで遊んで攻撃爆裂!

ん〜〜〜〜〜!私の旦那さんなのにぃ〜!!

旦那さんもやっぱり家で眠る方が良いと言って、3人仲良く川の字で眠ったのです。

がっ!

咳き込みがひどかった娘。
コンコン、コンコン、ゲロッ!

ん?ゲロッ?

ぎょえ〜〜〜〜!
吐いちゃったよ〜〜!

夜中にゲロッた娘。
親は必死で片付ける。

旦那さんは洗面器にお湯を汲んできて、汚れた娘の髪を洗ってる。

私は枕カバーをはずし、バスタオルを引き汚れ物を片付ける。

ドッと疲れた。

旦那さんはただでさえ少ない睡眠時間がさらに減ってしまって、5時間も寝てないだろうなぁ・・・。

疲れに帰ってきたようなもの。

それでも朝6時に「明日また帰ってくるからね」と言って出かけた。

うえ〜〜〜ん、淋しいよぉ〜〜〜!

朝イチで小児科に連れて行ったけど、治る過程で仕方のない事らしい。
今が一番本人も辛い時と言われたけど、確かに辛そう。

子供に対して親がしてやれる事は本当に少ないものです、大きくなるにつれてその比率はますます大きくなるんでしょう。

今はせめて子供の背中をさすってあげよう。
親の気休めに過ぎない気もするけれどね。

旦那さん早く帰ってきて・・・・(涙)。
あ〜ぁ!

旦那さんは行っちゃいました、岡山に。

今日から娘と2人きり。

実は私のほうがかなり参っていて、娘のほうはしっかりしてたりしてます。

昨日から39度2分の熱があるにもかかわらず、
「○○ちゃんは母さんがいるから淋しくないよ、だから母さんも○○ちゃんがいるから淋しくない」
と慰めにも力付けにも近い言葉を吐いておりました。

4歳児に慰められるとは・・・トホホです。

今日は熱も割と下がっているので元気な娘。

元気なのも結構厄介。
すぐに動き回って熱がぶり返すんじゃないか心配だし、なにより、うるさい!

でも昨日熱にうなされて、咳をする度に泣いていた娘を見ていたから、贅沢な事を言っているのかなとも思います。
子供の病気は見ている親のほうが辛い。
出来る事は何でもしてやりたい、少しでも楽になるならと、きっと世界中の親は思うのでしょうね。

一部にはそうでない人たちもいるらしいですが・・・。

親も心を病んでいる、そう思わないとそんなニュースを聞いてはいられない。
胸が潰れそうなくらい悲しい気持ちになる。

我が家は親が心を病んでいるとは言え、そういう事態に今のところ至っては居りません。

多分私も旦那さんも親の愛をたっぷりと注いで貰って育ったからだと感謝しています。

さ〜てと、今日は何して遊ぶかな?
ふらふら母子、2人生活のはじまりはじまり〜。 

泣きっ面に蜂

2001年2月3日
相変わらずの激鬱状態。
ふーっ!

明日が終れば旦那さんは岡山に仕事に行ってしまうのか・・・と考えては涙、また涙。

ま、テキトーに暮らさないと仕方ないんですけどね。

と言う事で、今日はめまいがひどかったので、お昼は「モスバーガー」で、夕食は買って来た巻寿司で済ませてしまいました。
でも上巻よ!

娘をお昼に迎えに行ってから一緒にモスに行き、お昼を食べたら眠くなってしまい横になってました。

ふと気がつくと娘の姿がない!

何処いった?と探すとコタツの中で赤外線ライトを見つめてボーっとしてる娘を発見。

「あんたなにしてんの?」>私。
「だってさむいんだもん」>娘。
「だったらコタツにはいって寝れば?」>私。
「まだ食べ終わらないんだもん」>娘。
「もういいから」>私。
「じゃぁねる」>娘。

この時に気が付けば良かったのですが、一緒に私も寝ちゃったんですねー。

で、2時間ほどして起きてきた娘。
寝起きのお約束の「お母さんのおひざー!」。

抱いてみると、ん?あつい?

おいおい!

熱を測ると37度8分。
熱としてはたいした事はないんだけど、何で今熱を出すかー!

かあちゃんは激鬱、とうちゃんは出張だというのにぃ。

とりあえず近所の小児科が、日曜にも診察してくれるので、明日朝イチでとうちゃんに連れて行ってもらいましょ。

泣きっ面に蜂、こんな言葉しか浮かんでこない一日でした。
今日は朝から劇鬱。

今日から始まる「着付け教室」にも行けませんでした。
もう自己嫌悪の塊。

お休みしますと言うTELも怖くて掛けられず、旦那さんにTELして貰いました。
情けない・・・。

朝からずっと声をあげての大泣き。
泣いて泣いて泣いて、旦那さんにSOSのTELを掛けて、慰めて貰いました。

あとは抗不安薬を飲んで「寝逃げ」。

起きたら少し楽にはなったけど・・・楽しくない・・・。


家にこもってるから余計な事を考えるのかもと、外を歩きに行ったけど、やっぱりだめでした。

仕方無しにレンタルビデオ屋で「カードキャプターさくら」のアニメを借りてきて気分転換。
これは案外利いたかも・・・。

旦那さんは一日おきに出張から帰ってくるからと慰めてくれるけど・・・この不安は消えません。

劇鬱、予想した通りやってきました。
やっぱりつらいわ・・・。
前回も書きましたけど、旦那さんが2月5日から一週間も家を空けると言うのです。

その事を考えただけで胸が痛くなるほど、不安で淋しい・・・。

いい年してって思う人もいるかもしれません。
あっ!、私の年は公表してないからそれはないか・・・ハハハ!

とにかく淋しいものは淋しい!

2月5日に向かって気分が急降下していくのは予想していた事ですが、もう何にも考えたくないってところまで来てしまいました。

ちょっと危ないかも・・・。

昼間は大丈夫だと思うのですが、きっと夜はパニクるか、口も利けなくなるかのどちらかだと思います。

果たして娘の世話が一週間無事にできるかどうか・・・。
どうしてこんなに彼に依存してしまうのでしょうね。

「好きだから」。
それだけじゃ説明できない気持ちがありますね。

結婚するまでは一人で暮らしていた訳ですし、バリバリとは行かないまでも仕事をして、一人の部屋に帰っても淋しいと言う感情はあまりなかったように思います。

すべては旦那さんと出会った事から始まったみたいです。

「この人なら大丈夫きっと受け止めてくれる!」
そう信じる事が出来る人に巡り会った事で、大人になりきれなかった心が表に出てきたのでしょうか?

そう、私の心はどこか歪んでいます。

大人になる為に超えてこないといけないものを、私は逃げて通ってきてしまった、そんな感じ。

ロールプレイングゲームで、大切なアイテムをボス戦が怖いが為に取れないでゲームを進めてしまい、経験値が上がらず、そのあとのゲームを低いレベルのまま闘う羽目になり苦戦している。

そう言ったら解ってもらえるでしょうか?(笑)

もう一度過去に帰ってそのハードルを飛び越したい、今はそう思っています。

「アダルトチルドレン」。

私もそうなのかもしれません。

早くに母親を亡くしたから?

そうは思いたくはないですけどね。
だってそれじゃ母親が可哀想過ぎるから・・・ね。
旦那さんが二月に仕事で一週間家をあけることになりました。

私はもうパニック!
「一週間も二人きりでなんていられない、一緒に付いて行く!」
と旦那さんを困らせているのですが、娘はというと解っているのかいないのか、別段困ったふうでもなく知らん顔。
なんだか泣き顔の親は照れてしまいました。

罪滅ぼしと言う意味なのかどうかは解りませんが、昨日3人で「トイザラス」に行ったら、旦那はもうおもちゃ買いまくリ!

髪をくくったりするのに興味を持ち始めた娘に
「人形を」と言うと、人形はいうに及ばずアクセサリー、着せ替えの洋服、果てはお家まで買ってしまいました。

それだけにとどまらず、今度はカタカナを覚えさせたいと子供用のパソコン&ソフトまで購入。

しめて2万880円の出費と相成りました。
もちろん旦那さんがお支払い。

娘が選んだ人形は「ジェニーちゃん」。

実は私はずっと欲しかったお人形。

家に帰り着くと早速梱包開封!
ウェディングドレスのジェニーちゃん、シンデレラのようなティアラにネックレス。
ロココ調のイヤリング。
親のほうが夢中になってしまいました。

一通り遊んでから娘に渡すと、彼女も夢中。

黙ってもくもくと服を着せたり脱がしたり、アクセサリーをつけたりはずしたりと、いつものおしゃべりな娘とは思えないほどの熱中振りに「女の子なんだなぁ」と思いました。

半日たっぷりと遊んだ上に「一緒に寝る」とのたまう娘。
どうぞどうぞと一緒におねんねしてもらいました。

で、今日。
娘が幼稚園に行っている間に、またもやジェニーちゃんを引っ張り出し、私は遊ぶ機満々、ではなく、「お洋服作り!」。

私は洋裁が出来てしまうもので、もう洋服が作りたくて仕様がありません。

朝からはぎれを引っ張り出して、お昼には一着作ってしまいました。(笑)

今度は何を作ろうかなー?
サテンの布が欲しいなぁと、すっかりはまってしまいました。

んー、やっぱり私の中にも少女の心は生きていたんですねー。

しばらくはジェニーちゃんの洋服作りは
「マイブーム!」になりそうです。

昨日娘が遊んだ後を片付けていると・・・早くもティアラとネックレスがぶっ壊されておりました。

そんなに邪険に扱うと・・・かぁちゃんが取っちゃうぞ!

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