復活!

2001年6月27日
帰ってまいりました。

実家の片づけをしていた怒涛の3日間は、何とか無事に過ぎてくれた。

ここ最近力仕事というものから縁遠かったもので、筋肉痛をおこした上に「筋を違える」という、情けない事態がお土産についてはおりましたが。

やはりかなりテンションが高かったらしく、すべてを片付けた後に疲れがきてしまい、3日目の夜に旦那さんの実家に寄った際、へろへろと横になってしまい、ダメ嫁ぶりを発揮してしまった。

義母はいつもどおりに優しくしてくれた。
やはり他人だから気を遣わないと言えば嘘になるけれど、もうここしか私の甘える場所はないのだからこの義母を大事にしなければ・・・と思っている。

あーーー、実家はもうないんだ・・・。

甘えられる実家ではなかったけれど、私にも人並みに実家と呼べる場所があった事を、今になってしみじみかみしめたりして。

これからは姉の家に時々行く事になった。
お互いの家を実家だと思う事にしようと・・・。

確かに体は大変だったけれど、気分的にはかなり落ち着いた良い状態が続いている。
元気だった時と比べて、八分どおりは復活!と言った感じですか。

今日は新しい心療内科に2度目の診察を受けに行ったのだが、なぜかふっと着物を着て行こうかなという気になり、新しい浴衣の下に絽の襦袢を着て小紋風に装って、紗の半幅帯を締めて出かけた。

なんとなく自分の中で着物を着る気になったら復活というバロメーターが出来ていて、「あー、鬱の波が過ぎたな」と実感した。

病院に着物姿は珍しいのか(そらめずらしかろー、着物着る元気な人はこんだろー)、浴衣にもかかわらず、待合室でおば様方に絶賛された。

「良い気分にさせてもらったわー」と言われた時は、さすがに嬉しかった。

亡き母と同じくらいの年であろうおば様も、着物は自分で着られないとおっしゃる。
着物ってそんな存在なんだな・・・。

診察室に入ると、新しい先生(慶子先生)にも後ろから横から「見せて!」と言って大層喜んでいただいた。
「調子良いみたいねー」
「お薬減らしてみても良いかもよ」と嬉しいお言葉を頂いた。

まぁ慶子先生とはまだ付き合いが浅いので、もう少し様子を診てからにして貰ったけれど、お薬を減らしても良いと言われたのは初めてなので、良い傾向かも・・・と思ったりして。

ま、昨日もフラワーアレンジメント教室に行ったし、少しづつまた動けるようになってきて嬉しい。

このサイクル、長く続くと良いな。

帰省?寄生?

2001年6月22日
今日から3日間姉の家に厄介になる。

ま、目的は今月中に明渡さねばならない父親の家の片付けの為なのだけれど、父親の家はガスも止められているので寝泊りするにはちょっと不便。

という事で、父親の家から歩いて行ける距離の姉の家に帰省?寄生する。

3食プラス風呂、旦那は晩酌付きなのだから寄生といっても良いかも・・・と思う。
あちら側は大歓迎してくれるんだけれどね、いつも。

土曜日に引越し荷物を処分してくれる業者がくるらしいが、肝心の人夫が足りない。
義兄と姉と私の3人でタンスやらベッドやらをトラックに載せないといけないらしい。

そんな力、私にはないよぉ・・・・。

うちの旦那さんはその日久々の仕事なのだ。
いつも暇なのになんでこんな日に限って、と言いたいが、そこは収入の為頑張ってもらわないと。

少しでも出来る事はしたいと、今日から片付けに行く。
ベッドの解体や棚の取り外しなど、明日に備えて出来る事はあるはずだから。

やっぱり頑張らないとって思っちゃうのよね。
頑張ったり気を使ったりって良くないんだけどな・・・。
性格だから仕方ないか。

という事で出かけてきます。
多分へろへろで帰って来ますので日記はしばらくお休みかも知れません。

病院探し。

2001年6月20日
今日も病院の前を通ったけれど、相変わらず同じ張り紙のままだった。

もう診療が再開される事はないのかな?
先生病気なのかな?

その事を考えただけで動悸がしてくる。
かなりあの病院(診療所)に精神的に依存していたんだなーと気付いて、これから先のことを心配している私。

鬱病は薬だけでは治せないものだ、とここまで歩いてきたからこそ、そう思える。

周りの(家族)の理解、養生できる環境、そして治療を受ける医師との信頼関係。

そういう大きなものから些細な事まで、鬱病と一緒に生きていくには沢山の支えが必要。

その大きな柱の一つを失った気がしてとても不安。

これから先、また信頼関係を築ける医者を探さなければいけないのかな・・・。

恋愛と同じで、「始めまして」の挨拶をして自分の事を話して、相手の事も同じ様に一つずつ理解していく。
喧嘩ではないけれど意見の行き違いがあったり、また反対に些細な事で笑いあったりと、そんな事の繰り返しを経てやっと相手を信じられるようになる。

その前に相性の問題だってある。
どうしてもあわない相手というのはあるものだ、と亡くなった母親が言っていた。

そんなこんなを考えていたら、なおさら病院探しが億劫になってきた。

病院を「薬をもらう場所」と割り切って考えられれば良いんだけれど、私はそれ以上を求めてしまうから・・・。

あ、憂鬱・・・。

憂鬱なのはこればかりが原因ではないんだけれど、それはまた次回に・・・。

アクシデント

2001年6月19日
今日は検査の為、病院に行く予定だった。

朝、いつものように娘を園のバス停まで送って行く旦那さんに診察券を先に入れてくれるように頼み、身支度をした。

もちろん朝食は抜いていた。

いつもなら「○番目くらいだよ」と旦那さんからTELが入るのだが、今日の旦那さんのTELは「お休みだったよ」と言う驚きの事実。

「都合により今日は休診します」

そう書いた張り紙の横に、もう一枚、
「都合により今日より休診します」と書かれた張り紙が、もう一枚張られていたらしい。

今日より・・・・?

つまり何時から診療を再開するかは解らないと言うことだろうか?

とりあえず病院にTELを入れるが、誰も出ない。

自分の目で確かめたくて、病院まで自転車に乗って行った。

やはり旦那さんから聞いたとおりの張り紙。
インターホンも押してみたが、反応なし。

どうしよう・・・・。

検査に行く事を決めていたので、その日に薬をもらう予定にしていたのだ。
家には薬のストックはほとんど無い。

不安で不安で胸が苦しくなってきた。
でもどうにかして薬は手に入れなくてはならない。

あの鬱の地獄はもう見たくない。

私の中では≪薬が無くなる≫=≪鬱の地獄に逆戻り≫の図式が出来上がっていて、薬無しの生活など恐ろしくて考えられない。

ネットで近所の精神科、心療内科を急いで探し、比較的近く、自転車で行ける距離に精神科を見つけた。

電話で予約制かどうかを確かめると、親切に予約は必要ない事と病院の場所を教えてくれた。
電話の感じではいい手ごたえ。

すぐに自転車で行くと、精神科とは標榜にあげておらず、内科、心療内科とある。

そんなに混んでも居なさそう。

受付に行くと笑顔の事務員さんが「電話の方ですね」と言って迎えてくれた。

15分ほどで呼ばれて診察室に入ると、中年の優しそうな女医さんが座っていた。

いつもの内科で薬を貰えない事情と、これまでの経過を話し、今飲んでいる薬の名前を知らせると、快く薬を出してくれると言う。

不安ではちきれそうになっていた心が少し緩んだ。

それから私の年齢辺りの女性に同じ様な症状の人が増えている話や、これから先年齢が進むと共に症状は段々に治まって行くだろうと言う話しをしてくれた。

「更年期の入り口」
自分の年齢をそう表現されるといささかショックではあった。

そう言えば、友人が最近自分と同じ様な症状を訴えている。

私もそんな年齢になっていたんだ・・・。
娘がまだ小さいので、自分の年齢をそんな風に考える事もなかった。

なにせ周りはまだ20代のお母さんが一杯、
「2人目はまだ?」なんて話題が当たり前に飛び交う環境。

こんな私でもこの質問をされる事が、極たまにだがある。←ちょっと自慢(笑)

でも体だけは正直に時を刻んでいたんだ。


でもいつもの病院の先生どうしたんだろ?
入院でもされたかな?

とっても心配・・・。

私の一番辛い時に支えになってくれた先生、何時までも元気でいて欲しいな。

少しまし、かな?

2001年6月18日
気力は出ないものの、少しは気分がUPしてきた。

ずっとコモラーしていたのだけれど、久々に旦那さんとランチに出かけた。

すごく混んでて一杯待たされたけれど、やっぱり旦那さんと2人きりで食事できるのは楽しい。

旦那さんを見てるだけで面白くて、沢山笑った。
そして沢山食べた。

結果、胃薬のお世話になった。(^^ゞ

晩御飯は入らず絶食・・・。
旦那さんもあまり食欲はなかったみたいで、夕ご飯はお蕎麦。
娘はそれでも機嫌が良いからこれで良しとしよう。

明日からはまたいつもの生活が始まる。
つまり旦那さんの帰りを待つ生活、かな?
自分のペースで一日を過ごせるようにしよう、それが今の私には大事な事だから。

落ちるのは一気に落ちるけれど、浮上するのは少しずつ。

そうだね、少しずつ少しずつ。
出来る事をしていけば良い。

着物を着たいと思えるまでが目安かな?
そしたら浮上したって事。
んー、まだまだそんな気にはなれない。
今日もだめだめモード。

娘を迎えに行ってお昼はマクドナルドで済まし、また午後はとろとろと寝ていた。

遊びのお誘いもお断りしてしまった。

こんなでは友達も出来ないかなぁ・・・。

しなくてはならない事は山のようにある。
それを考えると、う〜〜〜〜・・・。

ま、今は仕方ない。
時を待つしかないな。

鬱2日目

2001年6月15日
やっぱり鬱だ・・・。

楽しくないのは確かに辛いが、我慢出来る範疇にある。

でも「何もしたくない」と言う気力のなさは、我ながら嫌になる。

今日も殆んど一日とろとろと寝ていた。

着付け教室は休んだ。

行けない事もないのだろうが、娘が何かを感じて私のそばを離れるのを嫌がったので「延長保育」が出来なかった。

幼稚園が終わるのを待っていては遅刻してしまうので、今日は断念。
先生のお宅に電話をいれて、体調が悪いからと説明しておいた。

どうにも気分がすぐれない。
簡単な家事は何とかやったが、夕食は作れなかった。

まだ帰ってきてはいないが旦那さんに何とかしてもらうしかないな・・・。

朝病院に行って気分がUPしないことを訴えたが、医師は
「今日のお天気のように雨の日もあるし、晴れる日もある」
「良い時もあれば、調子が悪い時もあって当たり前、それで落ち込んだりする必要はないんだよ」
と相変わらずのゆったりした口調で話し、特別な処置は必要ないといった。

ん〜、解るんだけどね。
でもでも、なんとかしてくれ〜!

何にもしたくないと言えば、しなくていいと言う。
寝てばっかりいると言えば、寝てれば良いじゃないと言う。

でもでも、それじゃ嫌なんだよ〜!

心ばかり焦っている。
治りたい、治りたい、治りたい・・・・

「必ず治る病気だからね」
帰り際にそう言われた。

今はこの言葉にすがるしかないんだな。

あ〜早く浮上したいよ。

ごめんなさい。
今日の日記は愚痴ばっかりで・・・。


鬱突入か?

2001年6月14日
う〜、楽しくない状態突入。

今日は旦那さんがお休みでお家に居たというのに、例の「楽しくない病」が出てしまった。

何をしてても気分がUPしなくて、とうとう「寝逃げ」に走ってしまった。
お昼から1時半までとろとろと寝ていた。

旦那さんはというと、こんな嫁には慣れているので「網戸改造計画」とか訳の解らない事を言いながら、網戸をスムーズに動かす為の金具製作に熱中していた。

この人は実にこんなちまちまとした事が好きである。

この間はサッシのレールを絵筆を使ってちまちまと掃除していた。
それも娘と2人喜々として・・・。

昨日はボーリングに行こうとか、買物に行こうとか話していたのだけれど、こういう精神状態に陥ったが最後、私は家から出られなくなる。

鬱病でも仕事をしている人は沢山居られるが、本当に尊敬に値すると思っている。

しばらくはこの鬱の波の中をゆらゆらしなければならないが、それも随分慣れて来た。

抑うつ状態時が辛いのには変わりはないのだが、少しでも楽になる家での過ごし方と言うのが解ってきたのだ。

それは家族にはメチャ迷惑なのかも知れないが、しばらくの間我慢してもらっている。

「専業主婦なのだから家事をしなければいけない」という呪縛から、自分を解放すると言う努力をしてみるのである。

簡単に言えば「手を抜く」と言う事。

掃除は「○イックルワイパー」なる便利グッズが登場してくれてから随分楽になったし、洗濯は雨続きと言う事でしなくても言い逃れが出来る。

食事に関しては商品研究開発が進んだおかげで、冷凍食品も立派なメインディッシュになってくれる。

あとは娘の世話だが、これは・・・・自分でやってもらうしかないか。

旦那があまり口うるさくない、と言うのは大変なラッキーでもある。

また、この人前述どおりちまちまが好きなだけあって、ちまちました家事も嫌がらずにやってくれるのである。

どちらかと言うとこのちまちまを楽しんでいる風にも見える。


例えば買物を頼むとする。

するとこの人は一軒のスーパーで済む買物を、野菜は「安い!新鮮!」がウリの八百屋で買い、ティッシュペーパーはやはり一番安いドラッグストアで買い、豆腐は安くて美味しい商店街の豆腐屋で買い、残りの品をスーパーで買ってくるのである。

一度買物に出ると一時間近く帰ってこないことはざらである。

私は愛情を込めて彼を「マメオ君」と呼んでいる。

彼が居るから私は安心して鬱にどっぷり浸かっていられるのかも知れないなぁ・・・。

またしばらくはよろしくね、マメオ君!

お誕生会♪

2001年6月12日
今日は幼稚園で6月生れの園児の「お誕生会」があった。

このお誕生会にはその園児の親も招待される、と言うか、行かざるをえない状況になっている。

園児一人一人が小さなアレンジされたお花を持ち「お母さんありがとう」と言って、母親のもとに渡しに来ると言う演出がなされているので、渡す親が居ないのはやはり具合が悪いのである。

ま、当然来られないお母さんも居られる訳で、そういう場合はおばあちゃんなり、じーちゃんなりが代役として駆り出されるのが普通らしい。

今月は我が家にも招待状が来た。

旦那さんが仕事と言う事で、母親の私が(普通はそーだよな)出席した。

ところが、夕べ娘がえらい事を言い出した。

「お母さん、明日着物で来てね!」←娘

「え?着物?」←私

「うん、着物で来て!」←娘

えー!みんなジーンズとかラフな格好で出席する「お誕生会」だぞー。
そこに着物で行ったら目立つに決まってるじゃないか。
いくら私が着物好きと言えども「TPO」と言うものくらいはわきまえているぞ。

しかし頑として娘は着物と言って譲らない。

「目立っちゃうしねー」とか言っても、「いいじゃん」の一言で片付けられてしまった。

そうなるとこっちは色々と娘に我慢をさせていると言う負い目もあるし、出来ない事が多い中で、出来る事は最大限してあげようと自分の中で決めていると言う事もある。


と言う事で、またまた着物でお出掛けと相成った。

朝、娘を送り届けてから急いで化粧をし、身支度をした。

なにせ時間が無い。
9時40分までには園に着いていなければならないと言うのに、着物では自転車に乗れないのである。

ここが着物の泣き所だー。

徒歩での園までの所要時間も考えに入れて時間を逆算し、着付けに使える時間はきっかり40分まで。

普段ならなんてことのない時間だが、お太鼓結びでは仰々しすぎると考えて、もっとカジュアルな半幅帯の帯結びにしたのだが、これが新品の半幅帯&初めてする結び型だったので、ちょっとハラハラものだったのだ。

半幅の帯は帯揚げも帯締めもいらないし、簡単な結び方が多いのだが、びみょーな加減で粋にもださださにもなってしまう。

とりあえず結び終え支度はしたが、どうにも自信が無く、普段は滅多に話をする事さえ少ないお向かいさんに頼み込んでチェックをしてもらったくらいだ。

御向かいさんの「OK」と言う言葉を背に、やっとお出かけとなった。


で、幼稚園での反響は・・・と言うと、予想通り、
「この園を開いて40年、着物でいらしたのはミュウさん貴方が初めてです」と言うありがたーいお言葉だった。(涙)

でもその言葉のあと、園長先生は優しく
「子供は自分のお母さんはいつでも一番綺麗でいて貰いたいと思っているものなんですよ」
「お母さんが綺麗にして来てくれる事は、子供にとってとても嬉しい事なんです」と言って下さった。

ま、ナイスフォローと言うところか・・・。

娘は私を見るなり走って飛びついて来てくれた。

これですべて今日の私の苦労は帳消し、努力は報われたと言う事だろうか。

やっぱり親なんだね、私も。

しかしやっぱり浮いていた事に間違いはないだろうな。

おまけに鼻緒ずれが痛い・・・。

でも、「ま、いっか」なのである。


悲しい事件

2001年6月10日
お隣の池田市で小学校に男が乱入、8人が犠牲となり命を落とされると言う事件がおきた。

怪我をされた方も相当数居られるらしい。

なんとも痛ましく悲しい事件である。

犠牲となり、亡くなった方には心からご冥福を、今まだ入院中の方々には一日も早い回復をお祈り申し上げる。

この事件、お隣の池田市で起きたとあってこちらでも当日はあちこちで話題になっていた。

幼稚園のお帰りのバスを待っていたら、幼稚園の副園長先生がいらして、
「公園でも決して子供から目を離さないで!」と言っておられた。

「幼稚園の安全面での対策はどうなのか?」とのお母さんの質問に、
「園では鍵を2箇所掛けている」、
「ドアの音がすればすぐに見える場所に必ず誰かがいる」との事でした。

今回は教育機関への連絡が早く行われ安全面での注意を促されたらしい。

とにかく亡くなったお子さんの親ごさんの心中をを思うと、同じく子供を持つ者として他人事ではなく胸が潰れそうな思いがしている。

ただマスコミの報道で気になったのは、最初の報道で
「犯人は精神安定剤を服用云々」と言われていた事。
これによって、
≪精神安定剤を飲んでいる人間=犯罪を犯しかねない人間≫
と言う図式が世間の人の頭に刷り込まれないかと言う懸念がある。


犯人は精神安定剤を多量に服用していたと言う話。
トランキライザーならともかく、安定剤はその反対の作用「気分を鎮めるもの」であり、
極論かも知れないが「犯罪を犯さない為に飲むもの」
そういう位置あいにあるものだと思う。

これを混同される事は非常に危険だと考える。

私自身も「精神障害者」であるから、こういう事件があるたびに
精神病院に通院歴が・・・、向精神薬を服用・・・、などとまず書かれる事に非常に敏感である。

大多数の精神障害者は、向精神薬を服用しながら何とか普通の社会生活を送ろうと必死に頑張っていると言う事実を知っていただきたい。

事件を起こすのはほんの一握りの、それもかなりの重症な患者である事。

それが安定剤を飲んでいたとか、精神科に通院歴があったとかだけを取りざたされると、今まさに心の病に苦しんでいる人達が、世間の目を気にして行けなくなるのではないと言う心配がある。

このような報道の為に精神科に行かない、行けない人が増える方が本当はもっともっと危険な事なのである。

かといって今回の事件の犯人に酌量の余地は全く無い。
「死にたくても死ねなかったから、死刑にして欲しかった」

それでは殺された子供たちは、犯人が目的を達する為の道具に使われたと言う事か。
どうして何にも罪の無い子供たちが死ななければならないのか。
本気で死にたいと願うなら、ひっそりとその目的を果たして欲しかった。


今ごろ亡くなった子供さんの親ごさんは、
気も狂わんばかりの悲しみの中に居られるだろう事を考えると、身勝手な犯人の行動に激しい怒りを感じるし、法的にもきちんと罰されるべきだと強く思う。

ただ今、多くの精神障害者が「十羽一絡げ」に考えられる事を恐れていると言う事も知っていて欲しい。

事件を未然に防ぐ為に重度の精神障害者を隔離するのは可能かもしれない。
でも何処にボーダーを引くかとなると、それはとても難しい問題である。

世間が魔女狩りならぬ障害者狩りに走らないことを祈るばかりである。

とにかく悲しい事件である。
近くに住んでいるせいか、自分が精神障害者だからか、たくさんたくさん考えさせられる事件である。



幸い娘の風邪は長引かず、今週の火曜日から幼稚園に行きだした。

幼稚園では席替えもあった様で、例の「ストーカー君」とも離れ、快適な状況になったようだ。

でもきっちり「ストーカー君」娘に釘を刺しにやってきたそうで、「○○と遊んだらあかん!」と言いに来たらしい。(笑)

○○とはその時遊んでいた男の子。

「今度は嫉妬かいっ!」と旦那さんが怒っていた。

ま、娘が元気なのは我が家にとって歓迎すべき状態。
行ってもらいましょ行ってもらいましょ、幼稚園。

と思っていたら、今度は私の具合がおかしくなってきた。
献身的?な看病のご褒美としてウイルスを頂いたようだ。

う・・・・、もうちょっとええもんくれよ。

という事で風邪には早めのお手当が肝心!
朝一で病院にGO!

先生私の喉を見るなり、一言。
「ぽんぽこりん」

笑えた・・・。

薬で肝臓をやられた事もあってか、今回はうがいと点滴で乗り切ることになった。

今日で点滴3日目。

良くなってんだかなってないんだか。
おとなしくしていない私もいけないんだけどね。

でも色々用事もあるのだ。
昨日は幼稚園のお誕生会に娘に渡されるお誕生日カードの中に入れられる、「親からのメッセージカード」を書いた。

これが結構大変。
絵は書かないといけないわ、メッセージは考えないといけないわで3時間近くかかってしまった。

絵は娘のお気に入りのハムスターのキャラ、下にはデコレーションケーキを書き、メッセージをひらがなで入れる。

サインペン12色、クーピーペンシル24色を使っての大作である。

あんまり大変だったので、旦那さんに
「来年はあんたが書いてよ!」と言ったら、
「ほんまに書いてええん?」と聞いて来た。

旦那曰く、松竹梅、鶴亀、赤富士、朱竹のおめでたい絵を書きたいらしい。
ジジイじゃあるまいし、子供が解るか一!

来年も私が書こう・・・(涙)

出産記念日?

2001年6月6日
「ヒッヒッフー」「ヒッヒッフー」。
これはラマーズ法の呼吸法である。

分娩台の右後ろに居る旦那は、相変わらず陣痛のたびにこの掛け声を掛けてくる。

深夜2人きりの分娩室、旦那のヒッヒッフーの声だけが響いていた。
はっきり言ってこれは不気味だ。

当の本人は痛さに耐えかね、もうとうにそんな呼吸法などどうでも良くなっていると言うのに。

と、看護婦さん達が新生児室の授乳を終え帰ってきた。

「どうですかぁ〜?」のんきに声を掛けてきた助産婦さんが、私の様子を見たとたん「急いで先生呼んできてっ!」と看護婦さんに指示をした。

どうやら授乳時間の間に私のお産は急ピッチで進んだらしい。

助産婦さん達がにわかに臨戦体勢に入った事で、それが予想外の進み方だった事が解った。

それまで力を入れてはいけないと言われていたのに、いきなり「はいっ、いきんでー!」である。

おいおい、そりゃないだろー、今まで放っといたくせにー。

それでも言われるがままにいきむと、「○時○分、破水!」とか言われる。

もう疲れきっていた私は「あと何回いきんだら産まれるんでしょ?」とお馬鹿な事を聞いた。

「あと1回頑張ったら産まれるよ」
一体いつからそこに居たのか、先生がそう言った。

一回かぁ、そんじゃ死ぬ気で頑張るかと次の陣痛で思いっきりいきんだら、ツルンとなにかが出てきた。

「産まれましたよー」
「女の子ですよ」

看護婦さんの一声で一気に場が和んだ。
3032グラム、五体満足、元気な女の子だった。


やっと終わった・・・これが私の正直な気持ちだった。

あーこれで痛いのから解放されたという安堵感と、私でも産めたぞという驚きの気持ちはあったが、感動で涙が出ることも、嬉しさで笑う事も無かった。

後で聞いた話だが、旦那はこのとき感極まって泣いていたらしい。

陣痛が始まってから24時間、ようやく私の戦いが終わった。


しばらくしてきれいにお風呂で洗ってもらった子供が私の胸の上に置かれた。

可愛い我が子と初めてのごたいめ〜んである。

暖かくずっしりと重い可愛い我が子。

がっ、その顔は旦那のカラーコピーであった。

十月十日お腹の中で育て守り抜き、24時間苦しんで生んだ母親の私にはまるっきり似ず、いい思いだけして、何の痛みも感ずる事無くクロスワードパズルに興じていた男にになぜ似ているのか。

遺伝子の問題とは解っていても、はっきり言ってこの理不尽にはムッときた。

しかし当の旦那は「ミュウに似てるね〜」と私に言い放ったのだ。

きっとその場にいた全員が、顔をブンブン振っていたに違いない。
それほどに我が娘は旦那にそっくりだったのである。


あの役に立たない親父は有頂天。
何度も新生児室に行っては子供の顔を眺めていた。

姉はよく頑張ったねと言い、動けない私の身の回りの世話をしてくれていた。

こうして我が家の一人娘は、皆に歓迎されて産まれて来たのである。

夜が明けた。

私にとって人生で一番長い夜だった。

出産記念日?

2001年6月5日
昨日の続きである。

旦那が居なくなった一人の部屋で私はのたうち回っていた。

極度の痛みは人間の精神状態をおかしくさせるらしい。
子供を産むと言う本来の目的などどうでも良くなるのだ。

「このまま死にて〜」と窓から下を見下ろしたりしてみたが、ここは2階、死ねるはずも無い。

本当に「殺してくれ〜!」の痛みなのだ。

2時間に一度くらいは看護婦さんが様子を見に来るが、子宮口の開き具合を見だけで、「ああ、まだですね〜」と言ってすぐに詰め所に戻ってしまう。

殆んど一人ぼっちである。

陣痛は1分間隔。
つまり1分激痛が来て、1分休みがある。

そのわずか1分の休みの間に、なんと自分は眠ってしまっ手いることに気付いた

1分間うめきながらのた打ち回り、痛みが切れると同時に寝てしまうのだ。

この寝つきの速さはギネスものだと思う。

我慢もいつか限界が来る。

痛みに耐え切れなくなった私はついにナースコールを押した。

しかし痛いというだけでは「痛いのは当たり前!」とあしらわれるのは解っているので、小ずる賢い私は「気分が悪いんですぅ〜」と嘘をついて看護婦さんを呼びつけた。

とっとと分娩室に行かせて貰いたかったからだ。

分娩台に上がってしまえば何として貰えるんじゃないかと朦朧とした頭で考えたのだ。

作戦成功!
看護婦さんは「じゃぁまだ早いんですけど分娩室行きます?」と聞いて来た。

無言でうんうんとうなずき、陣痛の合間を縫って分娩室まで・・・・、なんと!歩かされたのだ。

普通「ストレッチャー」位乗せてくれるんじゃないの?ねぇ・・・(涙)

分娩室までよろよろと歩き、やっと分娩台に上がった頃にはもう口を利く元気も残っていなかった。

その頃自宅の旦那のところには、産院から分娩室に入ったと言う電話が掛けられていた。

立会い分娩を希望していた旦那は急いで産院へやって来た。

がっ!
なんと旦那のみならず、姉とこれまた全く役に立たない事が解っている筈の親父までが一緒にくっついて来たのである。

深夜2時頃だよ〜。
寝てろよ親父〜。
何しに来たんだよ〜。

看護婦さんにもやんわりと嫌味を言われた。

分娩室には緊張の塊と化した旦那が入って来たが、何の役にも立たないのはこっちも解っている。

「茶!」と私が言うとストロー付き水筒を私の口元に持ってくるだけの為にそばに居るようなものだ。

陣痛の間隔はさらに短くなり、もう殆んどず〜っと痛い状態である。

もうそろそろかな?と思った瞬間、看護婦さん達は「授乳の時間ですのでちょっと行ってきます。ご主人よろしくね」と言って、一人残らず分娩室から居なくなったのである。

旦那と2人きりの分娩室。

どうしろというんだぁっ〜〜〜〜〜!

「ヒッヒッフー」「ヒッヒッフー」
旦那が一人で呼吸法をやっている。

・・・・・あんたが産んでくれるのか?

分娩室のドアの外からは姉と親父の叱咤激励の声が聞こえる。

もうどうにでもしてくれ・・・・。

続きは明日に。

出産記念日

2001年6月4日
今日は我が一人娘の誕生日。

娘にとっては嬉しい嬉しいお祝いの日であり、私たち夫婦にとっても娘の成長を確かめられる嬉しい日である。

だが私には別な意味での思い出の日。
娘の誕生日とは、言うまでもなく私のただ一度の出産記念日でもある。

5年前の今日、私は3032グラムの女の子を産んだ。

前日の早朝、正確には5時20分、一度目の陣痛がきた。

さすがに痛さで目覚め、時計を見やったのを覚えている。
これは陣痛だとすぐにわかった。

時計を見ながら間隔を計る。
20分おきにそれはやってくる。
間違いない。

主人を起こし、陣痛が始まった事を話したが、主人は別に驚いた風もなくまたうとうとと眠り始めてる。
今から始まったとしたら産まれるのは今日の夕方だなぁなどと考えながら、私は眠れないまま布団で横になっていた。

7時を過ぎ、「5分おき」と陣痛の間隔が狭まってきたので主人をたたき起こし、産院に電話をした。

「9時の外来が始まってから来て下さい、我慢できますか?」との事。
まだ充分に我慢できる痛みだったので「はい」と答え、主人と2人で朝食を食べ、ゆっくりしてから車で産院に向かった。

産院で診察を受けると、緩い陣痛が始まっていると言われ、そのまま入院となった。

病室へ向かう階段を上がりながら、主人と夕方くらいかなぁと話していた。
まだ冗談も言えた。


そんなこんなでお昼。
昼食はそうめんだった。

でも五分間隔の痛みはさらに強くなっており、殆んど食べられず、残りは主人の胃の中におさまっていった。

夕方主人が一旦家に戻ると言う。

理由を聞くと夕べ水につけた梅がだめになるから塩漬けにして来ると言うではないか。
あきれて物が言えなかった・・・。

こんなに嫁が苦しんでいるというのに、その責任の半分を持つ旦那は梅干の方が気になるというのだ。

この話は未だにちくちくと人前で話してやっている。(笑)
「私より梅干を取ったのよ、この男は!」といった風に。

またそんなこんなで夜が来て、旦那は家から戻って来、また病室は2人きりになった。
陣痛は2分間間隔になったが、一向に産まれる気配はない。
私は陣痛のたびにベッドから降りて立ち上がり、ワゴンに掴まって「ヒッヒッフー」と模範的呼吸法をしていた。

立っていないと痛みの逃し様が無いほど陣痛は強くなっていた。

その横で旦那は「クロスワードパズル」に精を出していた。
こういう時男は全くと言って良いほど役に立たない。

そこに電話。
実家&姉から「今から行くから」という内容。

「こんでいいー!」
反射的に叫んだ。

姉が来るとなると旦那は一旦家に帰らねばならない。
こんな時に一人ぼっちは嫌だー!

それに姉が来てもこの激痛がなくなる訳でも軽減される訳でもない。

来て貰って痛みがなくなるなら、親戚全部呼んでるわい・・・・と痛みの中でつぶやいた。

お間抜けな事に、姉は父親を連れてきていた。

親父が来てなんの役に立つというんだ・・・。

来る方も来る方だし、連れてくる方も連れて来る方と言うものだ。

父親と姉は面会時間を過ぎた産院に入ることは出来ないので、旦那さんが彼らの世話をしに家に帰った後、私は一人の病室でのた打ち回っていた。

続きは明日。



今日は本当なら実家に居なければならない日だった。

父親がアルコール依存症専門病院から退院、そのまま実家の近くに出来たグループホームに入る日。

ずっと父親の今後を姉妹2人で案じ、行く先を探していたが、運良く姉の家からも近い老人ホームに今年グループホームが出来、そこに空きがあったのだ。

それからは介護認定を受ける書類を提出したり、医師の所見を聞きに行ったり、ホームの見学、そしてグループホームサイドの面接と、「駆け足でこぎつけた」と言った方が正直な話で、とにかく空きが埋まってしまう前にと急いで事を進めた。

もちろんすべては姉が一人で動いてくれたのだが、姉一人の意思で決められる事ではない為に、父親と私の意思も確認しながらそれらのことをこなして行ってくれた。

そして退院の許可とグループホーム側の受け入れ許可が下りたのが5月の下旬だったと思う。

姉と電話で喜びながらも、これからの忙しさを思うと少し気が重くもなった。

入所日に向けて「荷物の整理」「必要な物の買出し」。
退院日の「迎えの手配」、「看護士さんへの御礼」、「入院費用の精算とその費用の準備」。
もう一つ「近所の人への挨拶」と言う仕事もあったし、一つ一つそれも姉と電話で相談しながら2人で役割分担と時間を決めて6月2日を待った。

と・こ・ろ・が、
早朝、娘が突然の発熱。
38度9分。

こういう日に限って子供とは体調を崩すものなんだなぁ・・・。

熱のある子を連れて行く訳にもいかず、さりとて姉一人で退院から入所までの大仕事は不可能。

結果、旦那さんに行ってもらう事になった。

ただ退院する父親の迎えに我が夫が一人で行くのは不安がある。
父親が我が夫の事をまだ覚えているだろうか?と言う問題。

それで急遽姉が早く仕事を切り上げて2人で一緒に行くことに。

無事退院した父はその日の午後に、新しい、そして終の棲家になるかもしれないホームへと引っ越していった。

新しいホームでの生活に慣れてくれるだろうか?と言う心配も、初日から「カラオケ大会」に楽しそうに参加していたとの話しを聞き、杞憂に終わってくれるかもと言う希望も見えてきた。

ただそれで私の罪悪感が消えることはないが・・・。


大騒ぎの元となった娘の熱は相変わらず引いていない。
でもビデオを見たりして機嫌良くしているし、買物の間お留守番もしてくれた。
朝のうちに旦那さんが小児科に連れて行ってくれたし、そんなに酷くはならずに済むだろう。

娘にはおじいちゃんは新しいお家に引っ越したと、古いお家は片付けて何もなくし、新しい人に住んで貰うのだと話した。

新しいお家は遊びに行けるけどお泊まりできないし、一緒におもちゃを買いに行ったりは出来ないんだよとも言った。

さみしいね・・・。

娘が言ったこの言葉が、私の胸の中を表す
一番ふさわしい言葉だとその時気付いた。

参観日

2001年5月30日
今日は娘の幼稚園の参観日。

私の体調(心調?)が不安定な時を考えて、一応「押さえ」に旦那さんには休みを取ってもらっていました。

今日は私も大丈夫そうだったので2人共に幼稚園に行ってしまいました。(笑)
きっと単に子煩悩な父親に見えたことでしょうね。
いきさつを知らない人から見れば・・・。

私の関心は娘にちょっかいを出して泣かしている男の子にありました。
どんな男の子だろう?どの程度のちょっかいなのか?

娘が毎朝「幼稚園に行きたくない」と駄々をこねるほどのいたずらとかどんなものか?

心配性なのかもしれませんが、母親として娘の泣き顔を見るのはやはり胸が痛みます。

園につくと外遊びの最中でした。
娘は笑顔で走り回っています。

すこしホッとしました。

が、教室に入リその「ちょっかい」を目にして驚きました。

これが娘のことを好きな男の子のする事か?と言ったえぐいいたずらが続いたのです。

手遊びをしながら娘のわき腹に肘打ち、わざと足を踏む、ぴったり体をくっ付けて来るのは良いとしても、お絵かきが始まれ肘で小突いて邪魔をする。

とどめに外に出るときに自分の体をぶつけて娘をドアにわざとぶち当てるようにした時に、娘も我慢できずとうとう泣き出してしまいました。

それまで娘も「やめてよっ!」と大声で言ったり、体を押し返したりして抵抗していたのですが、さすがにこれには我慢の糸が切れたようです。

これでは毎日泣いて帰ってくるのは当然かも・・・。

お絵かきの途中でたまらず娘の横に行き、「優しくしてやってね」と声をかけたのですが、それでもこの仕打ちです。

娘の大泣きは止まりません。

仕方なく娘に近寄り抱きしめてなだめましたが、ずっと我慢していた様子を見ていただけに言葉のかけようがありません。

「泣かないのよ、お外に出て遊ぼうね」としばらく抱きしめていると、男の子が遠くに行ったのを確かめてから、仲の良い女の子同士で遊び始めました。

外に出ると他のお母さん方からも「可哀想だったわねー」と声を掛けられました。
他人から見てもやっぱり行き過ぎなんだなと判断したので、さりげなく先生に近寄り相談しました。

先生には、あまり親が介入するのもどうかと思うが、このままでは困ると言うような事を話しましたが「こういうぶつかり合いがあって子供も学んでいく所があるので」と言われるとそれも正論だしなぁと思います。

とりあえず6月に入ったら席替えをして様子を観てみると言うことに話はまとまりました。

2人が離れる事でいたずらも減ってくれる事でしょう。
娘が落ち着くのを見守って行くつもりです。

幸い女の子とは上手くやっているようですし、男の子の問題が解決すれば幼稚園にも機嫌良く行ってくれると思います。


この一部始終を遠くに住む友人にメールで送ったのですが、すぐさま「私だったら殴ってるとこよ〜!」と言うメールが返ってきました。

私だってぶん殴ってやりたかったわよ!
親にも怒鳴り込んでやりたいわよ!

これが私の本音。

子育ては難しい〜・・・・。



お宅はいけ〜ん!

2001年5月29日
着付け教室で一緒に習っている方から、絽の長襦袢を買ってもらえないかと言われた。

私がネットオークションで着物やら帯やら小物を買っていることを話していたので、ついでがあったら買って欲しいとの事。

ちょうど紗の半巾帯を買ったところだし、同じ出品者が絽の長襦袢を出品されていたので自分の分も一緒に入札しておいたら落札できた。

もちろん人様のものだから新品で、何度も取引のある安心できる方の品物。

その商品が届いたので、まぁ近くに御住まいと言うこともあり、お届けにあがった。

地図で大体の住所を調べて、お昼過ぎに近くまでお持ちするので取りに着て下さるように電話でお願いした。

で行ってみると、解りにくい〜。
迷った挙句、目標の病院を発見!←ほっ。

お電話するとすぐに出てきて下さった。

商品をお渡ししてすぐに帰るつもりだったのが、まぁまぁと言われお宅に・・・・。

どっひゃ〜っっっ!!!

すんごい立派なお宅!

門から玄関まで手入れされたせん栽が続くお宅。

いいのかな〜?と内心びびりながらも、どうぞどうぞと勧められ上がらせて頂くことに。

古いけどきちんと手入れされた純日本家屋。
もちろんきれいに片付けてお掃除してある感じ。

我が家とは全く違うぞ〜・・・・てへへ。

長襦袢をお渡しして代金を戴いたのだが、送料も掛かったでしょうと言われ2千円も支払おうとされる。

慌てて「とんでもないです〜」とご辞退。

自分の分だけでも送料は同じ代金掛かるので頂く理由もないし、まして2千円も掛かる訳はない。

奥様は「パソコンの電気代も・・・」とおっしゃる。

もう可笑しくなって来た。

オークションに一件入札するのに電気代が2千円掛かっていたら、日本にこんなにパソコンが普及したりはしなかっただろうなぁ・・・。


「いえいえもう・・・」と慌てて首を振り、何とかそのお金は収めていただいたが、実に驚いた(汗)

それから自分が着付けを始めた理由や、病気の事、奥様のお宅の事、ネットオークションの楽しさなどいろいろ楽しくお話させてもらった。

このお宅の御夫婦にはお子さんはいらっしゃらない
との事で、広〜いお宅にお2人でお住まいとか。

あー勿体無い、我が家が間借りさせて頂きたいくらいである。

ご主人も定年退職されて、「悠悠自適の年金生活です」とおっしゃっていたが、なんとも優雅なお話。

う〜ん理想の老後でしょう。

お話している最中に、急に奥様がどこかに行かれた。

戻ってこられた奥様の手には2枚のたとう紙。

単の着物を持っていないと教室で私が話したのを覚えていてくださったらしく、
「よそ様から頂いたお着物だけど丁度サイズが合うだろうと思って出して置いたのよ、良かったら着てちょうだい」とおっしゃる。

ひえ〜っっ!

確かにこの着物は奥様にはもう派手だろうし、お子様もいらっしゃらないから着手はないだろうけれど、
仮にも着物、簡単に頂いちゃっていいのか?

一瞬の間に色んな考えが頭の中をぐるぐると駆け巡り、しばしパニック。

いいのかなー?いいのかなー?と言うのが顔に出ていたらしく、奥様、「ウールものだし、人様の着られた物だからおいやでなかったら・・・」と言ってくださる。

辞退するのも悪いかなーとありがたく頂く事にしたが、しつけが掛かった羽織まで一緒に下さった。

おおっ!
単の着物と羽織、GETだぜ!

それからお茶とお菓子を出して下さったのだが、お昼を食べたばかりでお菓子は入りそうもない。

「子供に頂いて帰ります」と言うと、うちの娘の分は別に用意してあるからとおっしゃる。

ええ〜っっ!?

何と奥様、朝伺うとお電話してからこのお茶菓子と娘のお菓子を買いに行ってくださったらしい。

なんと言う行き届いた気配り。

私には真似の出来ない芸当だ。


私はただお届けすると言う気持ちでいたのに、奥様は私が「遊びに伺う」という心積もりで用意し、心待ちにしていて下さったのが解り、とても嬉しくなった。

同時にお2人でお寂しいのかな?とも思った。

娘のお迎えの時間もあったので、しばらくしてから娘の分のお菓子もちゃっかり頂きお宅を失礼した。

もちろん娘はお菓子をとっても喜んでいた。

この訪問で奥様と私の距離は少し近くなった。
これからは教室でももっと楽しくお話出来るだろうと思うと、次のお稽古日が楽しみになってくる。

次のお稽古には奥様に頂いた単の着物で行こう!

喜んでもらえるかな?

ありがとうございました、奥様。

芝居好き

2001年5月27日
今日は一人で梅田の劇場にお芝居を観に行って来た。

旦那さんとかわゆい娘はお留守番。

初めは旦那さんと2人で観に行く予定でチケットを2枚取っていたのだが、旦那さんの予定が判らないと言う事になったので、一旦チケットをキャンセルし改めて私一人分のチケットをオークションで手に入れた。

随分割高のチケット代になってしまった。

この劇団、人気俳優を輩出し今ではすっかりメジャーになった劇団だが、私が初めて観た10年程前はそれほどチケットが取りにくいというようなことはなかった。

千秋楽の最前列の席だって、ちょっと努力したら取れたものだった。

それが今では発売、即完売!に近い作品もある位チケットの取りにくい劇団になっている。

その劇団の千秋楽(最終日ね)だったもので立ち見の観客の数がすごかった。
キャパが900くらいある劇場にぎっしりの観客、その人気ぶりに驚いた。

途中気分が悪くなったらどうしようとちょっと心配したくらいぎっしり。

幸い薬のおかげでそんな事態には至らなかったけど、あんまり歓迎しない状況だった事は事実である。

芝居は久しぶりのヒット!

良かった。
感動した。
観終わってからもしばらくは心が温いままだった。

無理してきた甲斐があったと言うもの♪
旦那さんと一緒に来たかった。←彼の好きそうな内容だった。


でも私、芝居好きになったのはいつの頃からだろう?

少なくとも高校のときの強制的に見せられた芝居は好きじゃなかった気がする。

たしか大竹しのぶと奈良岡朋子の「奇跡の人」だった。

今思えば贅沢なキャストだし、絶対に面白かったはずなんだが・・・。

こういうのは人間と同じで、出会うべくして出会う時と言うのがあるのかも知れないな。

私の人間的成長とその演目が合った時に初めて、面白いと感じられるのかも。

とにかく観劇はここ10年以上の私の趣味である。

旦那さんと出会ったあの見合いの釣書にもはっきり趣味=観劇と書いたはず。

ところで旦那さんの趣味の所には何とかいてあったんだろう?

今となってはどうでも良いんだけど、彼にあの頃趣味なんてあったかなー?

居酒屋めぐり、とは書いてなかったのは確か。

えーとえーと、思い出した。
彼の釣書は義母が勝手にぜ〜んぶ書いたんだった。

今だったら「日曜ガラクタ大工」と私が書いてあげよう。

わっはっは!


着物でお出かけ

2001年5月26日
懲りもしないでまた某百貨店の、今度は「大雑端市」なる催しに出かけた。

着物を探しにである。

着物には決まり事が多い。
5月までは袷と言って裏地のついている着物を着るが、6月に入ると単衣と言う裏地無しのものになる。
7、8月は盛夏物「絽」「紗」と言った透ける薄物になるらしい。

最近ではこの決まり事もいくぶん「臨機応変に」と言った考え方に変わりつつあるらしいが、それでも真夏に袷は暑いに決まっている。

着物好きの私としては、年間通して着られるほどの種類と枚数を欲しいと思ってはいるが、なにぶん「飽きっぽい」と言う自分の性格は自分で熟知しているので、そんな無謀な事はしないよう自分を戒めている。

ま、今はとりあえず9月にも着られる(それくらいまでは飽きずにいるだろうと踏んで)単衣の着物を手に入れたかったのだが、ネットオークションでは判らない「手触り」と言うものの勉強をかねて呉服売り場に行って見ようと思い立った。

当日の朝、結構お天気も良かったので、着物を着て行こうかなーと思い立ち、和ダンスを物色。

とは言っても5月下旬ともなると日中袷の着物はヘビーかも知れないと思い、ウールの涼しそうな単衣に化繊の名古屋帯をしめて出かけた。

着物で出かける事には随分と慣れてきたので街中を歩くのは平気だが、こと呉服売り場となるとちと勝手が違う。

この道何十年とか言いそうな店の主人が寄って来て、あれやこれや勧めながらさりげなく客のお召し物を値踏みするらしい。←あくまで聞いた話である。

基本的にウール物は安いものが多い。

ちなみにこの日私が着ていたのは、新品だったとは言えリサイクルで買った200円也の着物である。

さすがに後悔した。

気後れするのである。

心の中で「暑くても我慢して袷の大島着てきたら良かったなー」と考えた。

まああまり気に入った代物もなかったこともあって早々に売り場を後にしたが、着ていく場所によって着物は考えにゃならんなと思った一日だった。

ま、考え方一つなので、高いものを勧められない様に気安い着物で出かけることも戦略に出来るかもしれない。

こんな事を経験しながら、安い着物でも高物に見せられる良い女になるのが目標だが、まだ着物を「着る」のではなく「着られている」私にとって、それは遥か彼方チベットの山脈より遠い道のりに思える。

でも好きだと言う気持ち、着たいと言う気持ちが一番大切なんだと思うから辞めないもんね!

今のところは・・・・(飽きっぽいんだもん、私)。

旦那さんはこの日のいでたちを「初夏らしくていいんじゃない」と誉めてくれた。

その言葉で十分なのかもね♪



お小遣い

2001年5月25日
主婦の皆さんに尋ねてみたい事がある。

自分自身のお小遣いというものは、どうやって手に入れられているのであろうか?

毎月旦那の給料からいくらと言う形で貰うのか、はたまた家計からテキトーに使ってるわーと言うのか、またあるいは内緒のバイトとかしちゃってるのか(だめよ、それはだめ!)←何を想像してるんだか・・・・。

我が家にはお互いにお小遣いというものは存在しない。

旦那さんは自営業だから、月によって必要な経費も違うし、もちろん収入も違う。

家計に必要なお金も旦那さんが管理しているが、封筒に幾ばくかの諭吉君を入れてもらい、なくなったらまたいつの間にか追加されている。

ドラえもんのポケットは持ってはいないだろうから無尽蔵にある訳ではないだろうが、これまでは何とかなってきている。

ただどうしても収入の少ない月はある訳で、そういう時は一言、「あんまり使わないでね」と言う言葉がプラスされる。

鬱病を患ってからは、買物自体を旦那さんに頼む事が増えた為、封筒に触る事もなければ、いくら入っているのかも知らないといったことも度々ある。

これでも一家の主婦なのだ。

ま、こんな奥さんも居ると言うことを知ってもらえば、
「私って頑張ってるー」と思っていただける事だろう。

お小遣いと言うかどうかは解らないが、旦那さんはまとまった収入のある月に限って、その消費税分位を私の自由に使って良いお金として封筒に入れてくれる。

私自身、欲しいものはネットオークションでGETしているし、その支払いは家にある不要品をオークションに掛けて売ったお金で買っているので、実質プラマイゼロに近い。

それに美容院だの習い事だのは家計から出して良いと思っている不貞なやからなので、お小遣いはあまり減らない。

たまに「おごってあげる」と豪語してラーメン屋の支払いをしたりする事はあるが(せこいの〜)、それ以外にあまり使い道はないように思う。

反対に旦那さんはと言うと、自分で管理しているのでお小遣いはどうとでもなる。

世間では月3万が相場らしいが、いくら使っているのか私は知らないし、また外に飲みに行くわけでもないし、パチンコもしない人なので使い道といえば私や娘にささやかなお土産を買ってきたり、趣味の日曜大工の材料費くらいだろう。

それとて家の為に使うのだから、お小遣いからの出費ではないだろう。

何が言いたいのかといえば、
「私ってなんて幸せなのかしら♪」って言う事!

お金の心配をせずに暮らせるなんて、それは幸せ以外の何物でもない。

一月「1万7千円」の食費で暮らしていた一人暮らし時代から比べれば、夢のようである。

旦那さん様様。

今日も元気に働いてきてね♪。

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